ロータリアンの広場


「人種差別との戦い 1」

2680地区 PDG 田中 毅(尼崎西)
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2680地区 PDG 田中 毅

 日本は先進国の仲間入りをした当初から、欧米列強によるアジアの植民地化を阻止して、人種平等の世界を創ろうと努力してきました。1919年にパリにおいて国際連盟憲章が起草された時に、日本全権団が人種平等の原則を盛り込むように提案しました。多数の国がこの提案に賛成して、日本案が採択される寸前に、議長であったアメリカのウッドロー・ウイルソン大統領が、このような重要な議案は、全会一致によらなければならない主張して、否決されました。当時アメリカは、フィリピンとハワイを武力で植民地にしており、国内で黒人に対して人種差別を行っており、典型的な人種差別国でした。

 アメリカは17世紀初頭に、迫害を逃れてイギリスから、大西洋を渡って東海岸に上陸した清教徒によって築かれた国です。アメリカの建国者たちは、北アメリカの大自然を、神が自分たちに与えたもの考えました。原住民のインデアンは人間ではなく、単に人の形をした動植物の一部としか考えず、できるかぎり早く、駆除すべき害虫と変わらない存在であり、当初、北アメリカ大陸にいた300万人のインデアンは、19世紀には30万人にまで減りました。

 アメリカでは入植した当初から、黒人奴隷を使役していましたが、奴隷解放宣言が発せられるまで、700万人以上の黒人奴隷がアフリカから拉致されて酷使されました。インデアンは従順でなかったので奴隷として適しませんでしたが、黒人は牛馬より寿命が長かったし、従順で安価に買えました。奴隷は私的な所有物であり、殺しても、強姦しても罪に問われることはありませんでした。アメリカにおける奴隷制度は、1865年の憲法修正第十三条の成立で終わりましたが、完全に終結したのは1995年ミシシッピー州憲法によってです。

 ハワイのアメリカ植民地化は、日本と大きな関りがありました。1881年、カラカウア王が来日し、明治天皇と会見しました。アメリカの政治的経済的侵略に危機感を抱いていた王は、カイウラニ王女と山階宮との結婚によってハワイ王朝と日本の皇室との間の関係強化を要請しましたが、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府がそれに応じませんでした。1891年にリリウオカラニ女王が即位して、アメリカとの不平等条約を撤廃する動きをみせると、アメリカは王政を打倒して、女王をイオラニ宮殿に軟禁しました。この時、日本は国王派から依頼を受け邦人保護を理由に軍艦2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてアメリカ軍を威嚇しました。女王を支持する先住民らは涙を流して歓喜したといわれています。もし日本が侵略国ならば、この時点でハワイは日本の領土になっていたのです。

 アメリカでは黒人奴隷制が廃止されたため、それに代わる安価な労働力として中国人移民が歓迎されました。1860年代の大陸横断鉄道建設が始まると、多くの中国人が労働者として酷使されました。経済不況下で、低賃金で働く中国人労働者の存在は、白人労働者の反発を招くようになり、中国人移民排斥運動に発展しました。白人の中国人に対する人種的な差別、攻撃はたびたび暴力的になり、多くの犠牲者が出ました。労働組合も中国人労働者の排斥を強く訴え、組織的な中国人排除の動きは、しばしば残虐な殺人にも発展しました。これらの運動の結果、アメリカは、1882年に中国人労働者移民排斥法を議決しました。

 これと入れ替わりに、日本人の移民が始まりました。最初の移民は、1869年カリフォルニア州に入植した旧会津藩士たちだったと言われています。その後、一般の移民も始まり、鉱山・鉄道敷設・道路建設・農場などの労働者として働きました。日本人移民は勤勉で長時間労働を厭わなかったので、白人労動者の地位を脅かし、アメリカ人社会に溶け込めず、日米摩擦の原因となりました。

  1890年代から始まった日本人移民排斥運動は、1924年には有色人種移民法の成立、更に戦争が始まると、アメリカ国籍を持つ日系アメリカ人が、敵性国人として、それまで汗水流して築いた財産をすべて没収されたうえで、全米の僻地に設けられた強制収容所に送り込まれた。これは、典型的な人種差別であり、同じ敵国であったドイツ系、イタリア系などの白人は全く収容されることがありませんでした。WASP (White Anglo-Saxon Protestant) でなければ人に非ずというアメリカ人の人種差別感は今も健在です。

(2018.05.08)

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