ロータリアンの広場


「人種差別との戦い 2」

2680地区 PDG 田中 毅(尼崎西)
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2680地区 PDG 田中 毅

 第二次世界大戦は、日本から仕掛けた戦争ではありません。当初は日本政府も軍部も、アメリカと戦うことを、まつたく望んでいませんでした。戦争を回避しようとして、開戦の直前まで、何回も日米首脳会談を提案しましたが、ルーズベルトはそれに応じませんでした。

 ルーズベルトは、祖父が清朝末期に阿片貿易によって巨万の富を築いて、香港に豪邸を持っており、中国の高価な美術品に囲まれて育った関係から、中国に愛着を持っていました。大統領になってからも、 巨大な中国市場を夢みて、中国に好意を寄せていました。日中戦争の間、ルーズベルト政権は、中国へ惜しみなく、援助資金と兵器、軍需物資を注ぎ込みました。

 アメリカ陸軍航空隊のクレア・ シュノルトを中華民国空軍航空参に任命したルーズベルト大統領は、1941年7月23日、蒋介石政権に新型のボーイングB17大型爆撃機爆撃機を供与して、中国機に偽装したうえで、アメリカの退役軍人を搭乗させて中国の航空基地から発進し、日本を爆撃する「JB No.355」計画に署名しました。予算総額は5000万ドルでした。

 1970年に公開された、ABC-TVの20/20によると、「JB No.355」という計画が立てられて、1941年10月1日に、蒋介石政権に150機のB17爆撃機と、350機の戦闘機を供与して、中国の航空基地から発進して、東京、横浜の産業地域と、神戸、京都、大阪 に奇襲爆撃を加えることになっていました。ところが、この日本本土奇襲爆撃作戦は、フランスがドイツに降伏して、イギリスが孤立したために、大型爆撃機をイギリスに急いで回さなければならなくなったために、中国への供与が遅れることになり、結局実施されませんでした。

 日本政府はアメリカも日本と同じように平和を望んでいるものと思い込んでいたのが誤算でした。ルーズベルト大統領は日本と戦うことを決めていたので、日米交渉が妥結する可能性はゼロでした。

 アメリカは11月26日に、それまで交渉によって積み上げてきた、合意の一際を否定する、「ハル・ ノート」を日本に突き付けました。これまで獲得してきた全ての権益を放棄して、明治維新直後に戻れと言う、最後通牒でした。
 緒戦における日本軍の進撃は、連戦連勝と目覚ましいものでした。日本軍は開戦と共に、イギリスが「 東洋の真珠」と誇った香港をたちまち攻略し、イギリスの支配下にあつたマレー半島、シンガポール、インドネシア、アメリカが統治していたフィリピン、オランダの植民地だったビルマを開放しました。

 色が違うために辱められてきた人々が、日本の働きによって、重鎖から解き放たれて、前途に眩い光を見ることができました。抑圧された有色人種が覚醒するなかで、アメリカ、イギリス、オーストラリア当局が狼狽えて、有色の活動家たちの取り締まりを強化したり、有色の人々を懐柔するために、慌てて人種差別政策を緩和することを強いられました。

  日本軍の進攻によって、数世紀にわたった白人の優位が打破されたことは、まさに驚天動地の出来事でした。日本は、アジア人を兄弟みなして、日本の占領地域では、日本の将兵は、同じアジア人に対して思い遣りをもって、対等に接しました。中国人が打算的で、白人に媚びていたのに対して、日本が毅然として、白人と対決してきたことは、高く評価されました。

 1943年11月5日に、帝国議会議事堂において、日本の戦争目的を世界と後世へ向けて宣明するめに、大東亜会議が開催されました。日本の東條英機首相、中華民国国民政府行政院長の江兆銘、タイのワンワイタヤコン首相代理、満州国の張景恵国務総理、フイリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・ モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席が一堂に集り、アジア諸国の独立について話し合いました。 日本はこの年8月にビルマと、10月にフイリピンを独立させていました。更に、オランダ領東インド諸島として知られていたインドネシアは、日本の指導下で独立へ向けて、教育、行政制度の整備や、将来の国軍の訓練などの準備が着々と進められていました。

(2018.05.11)

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