ロータリー語(T)
![]() 2630地区 PDG 服部芳樹 |
現代日本語と言っても、明治から昭和初期と、昭和中期から平成では、大変な違いがあります。例えば「の」と「な」の使用法にもみられます。前者を「昨日語」後者を「今日語」と区別することにします。ロータリーの目的の主文にあるロータリーの目的には、(ややこしいので、昨日語的に言えば)ロータリーの綱領にあるロータリーの目的には、「奉仕の理想」という言葉がありますが、この「の」も、人生の理想などと言うときの、昨日語的な「の」のように思われます。「奉仕の理想」も今日語にすれば、理想とする奉仕のあり方という意味で、「理想的な奉仕」とでも書くことになるのでしょう。
新訳では、「奉仕の理念」となっていて、さまざまな意見もあるようですが、理念か理想か、IdeaかIdealかとなると、プラトンやカントの哲学的な(の)議論にまで及びそうで、私にとっては、遥か天上の論議となり、避けて通るに若く無しといつも無言の行に入ることにしています。
そもそも「奉仕」なる日本語が「Service」の訳語になっているところなど、ロータリーが理解され難い原因の一つのようです。(この広場でも廣畑富雄PGが触れられていますが、)昨日語的に奉仕は、仕え奉ること、今日語的にはボランティアなどの無償の行為。カタカナ英語でサービスとなると、本日謝恩出血大サービスとか、セルフサービスとか(昨日語では「など」)しか浮かんできません。
最近、新会員の研修に当るロータリーのリーダーに向けてのセミナーを受持つ機会がありましたが、「例会」「make up」「推薦者」「会費納入義務」などというロータリー語も、その持っている意味が、ときに誤った解訳がされたり、皮相的な説明しかされていないことを知り、規範のもつ歴史的必然性や理念を語らなければと感じています。
根本的には、ロータリーそのもの概念が、歴史的な発展を遂げていく土壌、即ち、宗教も教育も異なる「文化」の中で育ったものですから、お互いに真意を端的に、一語に含めて置換えることは難しいことだと理解できます。そこでいつも思うのは、日本の「ロータリー文化」高度に成熟した日本のロータリー文化の中での哲学、かくあるべしとでもいった哲学的解訳を、ロータリー語について堂々と日本語で語りたいということです。
それにしても、ロータリー語の定義の難しさは、考えれば考える程意味が深くなり、果ては人生哲学にまで及んで行ってしまうところにあるようで、しかしまた、ここがロータリーの魅力なのでしょう。
私が2002年ガバナーを拝命したとき、地区幹事の要求で初めて携帯電話を持ち、ケータイメールを始めたようなアナログ人間でした。その後、RI会員組織コーディネーターの役職を拝命。この役職は毎年シカゴで研修を受けなければなりません。RIから送られてきた事前案内の中に、ノートパソコン持参のことと書かれており、そのセッションまで組込まれているではありませんか!
青天の霹靂吃驚仰天、とはこのこと。早速ノートパソコンを買って、往きの飛行機の中でもキーボードをあちらこちら押しづめの次第となりました。
この70の手習いで、何が一番苦労したかと言えばコンピューター用語です。カタカナ英語なので、英語の綴りはあれやこれやと推量する他なく、辞書で調べるのもひと苦労です。結局原意も判らず、ノウハウを棒暗記することになります。ロータリー用語の「あり方」とよく似ていると、いつも思います。
もっともロータリー用語の方が数は少ないのですが、説明は難しく、最近セミナーの講演で「職業奉仕」という言葉を解説しなければならなくなり、パワーポイントを作ったら、スライド枚数が160枚=講演時間は1時間でも尚不足し、これでは新会員から「ロータリーは学問か」と言われそうです。
(2013.12.4)