ロータリアンの広場


ポール・ハリスあれこれ;日本訪問、夫妻の家、育った谷間の村

1.ハリスの日本訪問
2700地区 PDG 廣畑富雄(福岡西)
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2700地区 廣畑富雄PDG

 ハリスに関する読み物として、ハリスの日本訪問、夫妻の家(カムリ・バンク)、育った谷間の村、について書いてみたい。軽い読み物だが、皆様のお役に立つ事と思う。例えば育った谷間の村、ここでの生活が、ロータリー創立の原点になったとハリスは言う(回顧録、My Road to Rotary, ロータリーへの私の道)。
 ハリスの日本訪問だが、これは1回のみである。この訪問には、ハリス自身の記録があり、楽しい読み物である。彼はプレジデント・クーリッジ号(クーリッジ大統領号)に乗船し、1935年、昭和10年、横浜港に到着する。横浜の前の寄港地はホノルルであり、日本を去った後は、上海に向かう。最終目的はマニラの太平洋会議出席で、当時のRI会長を含む17名の旅であった。この船は途中荒天に遭い、日本到着が遅れ、二日間のみの慌ただしい日本滞在になった。

 ハリスは、入港前の海から見た富士山の絶景が、素晴らしかったと記す。横浜港で多くのロータリアンの出迎えを受け、東京に向かう。そして帝国ホテルで、記念の植樹をする。夜は盛大な歓迎晩さん会が開かれる。日本ロータリーの創立者、米山梅吉さんの主催である。ハリスは、徳川公爵と、アドミラル斎藤の歓迎の挨拶があったと記す。
 徳川公爵というのは、古い話だが幕末の鳥羽伏見の戦いで、徳川慶喜が朝敵となる。徳川家をピンチヒッターとして継いだのが、徳川家達である。天璋院(篤姫)に育てられ、英国で教育を受ける。公爵に列せられ、貴族院議長を長く務める。首相の指名を受けるが固辞する。シカゴでのロータリー創立25周年の行事には、日本ロータリーの代表として出席し、立派な演説をする。斎藤提督は、海軍を代表する軍人で、穏健派であり、首相を務めるが、惜しくも二・二六事件で凶弾に倒れる。

 お二人とも文字通り、日本のトップに立つ方であり、当時のロータリーが、高い評価を受けていたことを示す。日本が戦争にのめりこみ、ロータリーへの批判が強くなるが、そして解散させられるが、ハリス訪日時は様相が大いに違っていたようである。
 ハリスらはさらに大阪・京都を訪ね、関西でも大歓迎を受ける。ハリスに彼の胸像が贈呈される。関西のロータリーの代表、村田省蔵さんは、大阪商船の副社長か社長であり、この胸像を、ハリス夫妻のシカゴの家に届ける。
 ハリス一行は、滞在の良き印象を胸に、日本から離れる。上海への船旅の途中、日本人と中国人が、敵対関係にありながら、船内の同じテーブルに着くのを見てハリスは喜ぶ。ご承知のように、国際間の友好は、ロータリアンの一貫した願いである。

(2018.11.19)

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