ロータリアンの広場


ポール・ハリスとロータリー(その1)
2710地区 PDG 諏訪昭登(広島西)
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2710地区 諏訪昭登PDG
1868.4.19: ロータリーの創設者ポール・パーシー・ハリスは、ウィスコンシン州ラシーンでジョージ・ハリスとアイルランド系の妻コーネリアの次男として誕生した。

1871.7月: 結婚祝いでプレゼントしてもらったドラッグストアをラシーンで経営していた父ジョージは生来の空想家、母は金銭浪費家だったため常に貧困で破産を繰り返した。この年、破産のため兄セシル(5歳)とポール(3歳)はニューイングランド地方(米国大西洋岸北部6州、独立の主力州)バーモント州のウォーリングフォードに住む祖父ハワード(65歳)、祖母パメラ(54歳)のもとへ引き取られた。幼妹ニーナ・メイは親元へ残り、セシルは間もなくスー伯母(母の姉)の元へと移り、さらに親元へ帰ったりしている。父方祖父ハワードは、1620年、宗教と良心の自由を求めて英国から渡航した清教徒(ピューリタン)、ピルグリム・ファーザーズに祖先を持つスコットランド系の人だと言われている。ポールは地元で有名になるほど腕白で、仲間の少年達と山野を駆けめぐる日々を送った。祖父母の愛を一身に受けて、勤勉、質素、かつ厳しい生活態度の中にも優しさをもって育てられた。祖父母の生活態度は、ニューイングランド地方の人々の特長である一切の虚飾と相容れない、平凡であっても毎日の生活に全力を捧げるという、きわめて単純な原理と、他人に対する思いやりと献身に包まれていた。そのことが、人生をいかに楽しくするかという感銘をポールの心に植え付け、後にロータリーの基本原理として発想した源流となったと彼が語っている。

1871.9月:小学校入学。その後ポールはニューヨーク州ケンブリッジにいた両親に引き取られたが再び倒産して祖父母の元に返り、次に両親が近くのフェアヘイブンに移住したのでまた親元へと移った。ところが、またまた三度目の破産で祖父母の元へ送られ、これが両親と再び共に生活することのない生涯の別離となった。この時、フェアヘイブンの小学校で初めてのガールフレンドとなったジョージー・リリーとの淋しい別れがあった。ポールの両親はこの前後に」三人の男子(ガイ、クロード、レジナルド)を出生させている。
月日が過ぎて地元のラトランド高校を経てブラックリバー・アカデミーに入学したポールは、初めて家を離れた自由を満喫し、悪戯遊びが過ぎて一年で退学処分となった。周囲の忠告と好意によってバーモント・アカデミー(陸軍士官学校)に入学し、一転して善良な学生として抜群の成績で卒業という成果を見せた。
1885.秋:バーモント大学入学。
1887.春:バーモント大学では有能なリーダーとしての素質を発揮していたポールは、二年生の時、暴力事件に関与した首謀者と見られ、他の3人と共に退学処分となった(後に冤罪と判明)。このことは、自分の自由奔放な性格が世間に恥ずかしい姿を露呈し、祖父母に大きな悲しみを与えたことで、彼の人生観に大きく影響した。この後、祖父の期待するように弁護士となって、この人生の債務を弁済することを決意した。祖父は祖母の進言もあって家庭教師を雇ってポールを支援した。
1887.秋:プリンストン大学入学(ニュージャージー州の名門)。
1888.3月:祖父ハワード(86歳)死去による経済上の理由で退学した。祖父の遺産分割は予想に反してポールには僅少で、我が子ジョージへの過保護が失敗の因となったことを考えてのことだったのかと思われる。ここでポールはそれを理解しこれをもって独立独歩、自立立身を決意する機会とした。いくつかの職場で学費貯蓄生活をして、アイオワ州デモイン市セントジョン・スチブンスン・ウィズナン法律事務所での司法研修を受けたりもした。
1889.9月:アイオワ州立大学入学。...
1890:祖母パメラ死去(78歳)。悲しみの中勉学に励む。
1891.6月:同大学を卒業し、弁護士免許取得。卒業式の際、ある先輩が「法学部卒業生は、5年位の自由自在の生活体験の後に思い定めた都市で開業する方が良い」と語った。
1891.夏:大いに感銘を受けたポールは早速実行に移し、のちにこれを「5年間の愚行」“Five years folly”(著書「My Road to Rotary」で)とも「放浪時代」“Vagabondage”(「This Rotarian Age」で)と呼んでいる。彼の決意は壮大な冒険、勇気、忍耐、そして探究心に満ちており、どんな仕事でも引き受け、親友ハリー・ブリアムと共に山野を300kmも歩き通したり、どん底の時は野宿もして、飢餓状態での窮乏生活の日々を味わった。米国内で30近い職業(カウボーイ、舞台俳優、果樹園労働者など)を体験し、その間、人生の恩人、生涯の友となったジョージ・クラーク(大理石会社経営、後にジャクソンビルRC創立会長)との巡り合いもあった。
1893.3月:クリーブランド大統領就任式見学のためワシントンDCへ行き、各処を見物した。その後、クラークの協力もあり、英国見聞のため二度の渡航。特に最初のボルチモア号の家畜係では筆舌に尽くしがたい辛酸をなめる経験を味わった。ここで彼は極限状態の中で、人間の相互愛がいかに必要なことかを痛感し、ロータリーの人生観を学び取ったといえる。とは言え、放浪の旅はまだまだ続く。
1893.9月:シカゴのコロンビア博覧会を見学し、のちにシカゴ定住決意の動機となった。  この年10月にはルイジアナ州ニューオーリンズのオレンジ園で働き、ハリケーンによる危機の中で人を助け、また助けられて九死に一生を経験した。
1894年:ジョージ・クラークの好意で欧米各地への大理石販売出張の機会を得て、仕上げとも言える社会見聞・体験をすることができた。
1896.2月:ニューヨーク勉強のため、クラークが用意してくれた臨時支店長の役をやがて前途への強い気持ちで固辞し、「5年間の愚行」に3ヵ月余を残して終止符を打った。
1896.2.27:28歳のポールは弁護士開業の地と思い定めたシカゴへ勇躍降り立った。    この5年間はポールの視野を限りなく拡大し、人間の相互愛の感動を目の辺りにする幾多の極限の機会を経て、のちにロータリー創立となる十分な動機となったことであろう。
1898年:ハリス&ドッズ法律事務所を開設して職務の基盤作りを進める中で、住居を30回位も転々としながらボヘミアン的生活を続ける。一方で、各宗派教会礼拝、遊興場所、各種集会参加など、持ち前の放浪癖を発揮しつつ自分の世界を広げていった。
1899.9月:多くの友人ができてもその交友は郷里ウォーリングフォードのそれと比べるべくもない寂しいもので、懐かしさと郷愁を胸に郷里を訪れたりしている。
1900.夏:シカゴ郊外ミシガン湖畔のロジャースパークに住む同業の友人に夕食招待され、散歩中いろいろな商店や事務所を訪問し、楽しい会話が弾んだ。この光景はポールに深い感銘を与え、一つの漠然としたアイディアを思いつかせた。即ち、職業上の交友が、家族的、友愛的交友と合わせて可能である親睦グループとしてのクラブ作りであった。職業人が友愛の精神で助け合うという目的を持った画期的なものであり、いわば商売と友情の橋渡しをしようと言う考え方である。
1905.2.23:自動車は馬より遅く、飛行機は数分間の滞空しかできず、最初の映画館がピッツバーグに現れ、アイスクリームやポップコーン、そしてコンクリート橋が初めて世に出た頃。日本では明治38年、日露戦争終結の年だった。この日、ポールは石炭商のシルベスター・シールとガリ夫人経営のレストランでスパゲッティを食べながら、5年近く暖めていた新しいクラブ構想を練り、二人の友人の待つ事務所へ向かった。そこはシカゴ市ノースディアボーン街127番地ユニティービル711号室、鉱山技師ガスターバス・ローアの事務所であった。ポールは、ローアと洋服商ハイラム・ショーレーに、新しいクラブの考え、即ち一業種一会員から成る物質的相互扶助を前提とした社交クラブとしての親交を目的とすることなどを説明し、一同合意してここにロータリーの暁が訪れたのであった。711号室は後年、ビル取り壊しの際シカゴRCが買い取り保存され、現在はエバンストンのRI本部に完全復活されている。
この夜のシカゴは南の風、日没は5時33分、気温2.2度、凍てつく様な寒さの中で彼ら四人の胸は温かい友情と明るい明日への夢で満ちあふれていた。これがロータリーの創立である。   ポールはこれを“湖畔の一都市を舞台として始まった一場のドラマ”と言い、”ディアボーン街の奇跡”とも語っており、「ロータリーの四人の使徒」と呼ばれる彼たちが歴史的会合を行ったのである。 さらに発足以来、ポールの目論見通り、シカゴRCは会員にとって砂漠のオアシス、故郷の谷に帰るような温かい癒しの場となって行った。
特筆すべきは、創生期において、今日までの大原則や一般慣習にまで高められた事柄のほとんどが決められたことである。曰く、@一業種一会員制(職業分類原則) A例会出席義務 B会務に関する互譲の精神 C政治および宗教上の論争および団体行動禁止 D例会場固定と食事(第7回目パーマーハウスから) E卓話の習慣(第3回目シルベスター・シール石炭置き場から) Fロータリーソング(ハリー・ラグルス) G理事会先議権 など多くの事柄である。ポールは初代会長にシルベスター・シールを指名しRotaryの名称決定を示唆したりして、そのいずれにも控えめに言動しながらも、強固なリーダーシップを発揮した結果だとも言えよう。
1906年:フレデリック・ツィードがドナルド・カーターを入会勧誘した際、クラブの閉鎖性、独善性を直言され、ポールは直ちにシカゴRC綱領第三条に「シカゴ市の利益を推進し、市に対する誇りと忠誠の精神を普及すること」を加えた。これはクラブが初めて社会的責任目的を自覚したものであり、後の発展の発端となったのである。
他方で同じ年の秋、数年前からロータリー創立についての計画など親しく相談し合ってきた恋人、グレイス・アイリーン・マンとの結婚話が彼女の家族の反対で悲しい結末を迎えている。

(2016.02.12)


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