ロータリアンの広場


ポール・ハリスとロータリー(その2)
2710地区 PDG 諏訪昭登(広島西)
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2710地区 諏訪昭登PDG
1907年: 綱領追加の結果として、ロータリーが提唱し、市民運動が高まり、シカゴ市の土地と費用提供(20、000ドル)による公衆トイレが実現し(1909)、ロータリー最初の社会奉仕事業だと言われている。この年ポールは三代目会長となり次の三つの目標を掲げた。1)シカゴRCの充実 2)他の地域にRCを設立 3)Community serviceの推進。
1908.1月: フレデリック・シェルドンとチェスリー・ペリーが入会。後にポールはこのことを「天の祐(たす)け」(「Thjs Rotarian Age」で)と語っている。シェルドンは、職業人の集まりであるロータリーは、経営の科学はサービスの科学だという考え方を根底に置くべしと論じ、“Service”の理念を持ち込んだ。大いに共感したポールは彼を情報・拡大委員長に任じ、サービス論と拡大を急進的に毎例会で強調した。それは当時150名位の会員の中に不協和音を喚起し、結果としてポールは重任していた四代目会長を任期半ばにして辞任し(1908.10月)、シェルドンも解任された。
1910.7.2:ポールは諸事多端のなか、シカゴプレーリークラブ(自然愛好クラブ)の創立に関与し、ある日のピクニックで服のほころびを繕ってもらった縁で、ジーン・トムソンと親しくなった。彼女はスコットランドから移住してきたばかりの美人で12歳年下だったが、この日、3ヵ月の交際の後42歳のポールと結婚したのである。
1910.8.15:ペリーを同志として三人はシカゴRCでの大目標推進を断念し、サンフランシスコRCなどが順次誕生したのを機会に、全米ロータリークラブ連合会(16RC、1500名)の結成に成功した(RIはこれをRI創立と呼称している)。ポールは初代会長、ペリーは事務総長、そしてシェルドンはbusiness method委員長となった。シェルドンはこの第一回シカゴ大会の祝宴で持論を述べ、ビジネスの科学は人間サービスの科学だとして、“He profits most who serves his fellows best”を発表してまずまずの拍手を得た。
1911.1.26:ペリーの尽力で機関誌「The National Rotarian」が発行された(現在の「The Rotarian」)。ポールはシカゴRCで急進的に目標推進したことで会員の友愛の気持ちに混乱をもたらしたことへの反省も込めて“Rational Rotarianism”という論文を掲載した。彼はロータリーで最も重要な言葉を唯一あげるなら“Toleration”「寛容」だと叫び、今もロータリアンに熱く信奉される言葉となっている。寛容の精神は祖父の一生を支えた魂であり、ポールの信念もそれに根ざしている。ポールは過ちを直ちに修正し、これはロータリーの思想上の原点の確立と言われている。
1911.8.21:第二回ポートランド大会が開催され、三日目(8.23)第4セッションでシェルドンはビジネスの科学はサービスの科学だとして標語を“He profits most who serves best”と改め、ペリー代読で発表した。会場の大喝采を受け、「ロータリー宣言(Rotary Platform)」の結語として採決された。また、司会進行役のポール会長は、大会ボートトリップでミネアポリスRC会長のフランク・コリンズが非公式に語ったlittle talkがあるが、それは後日機関誌で紹介すると語った(大会会議場で発表されたのではない)。記事は1911年11月号に載り、クラブ運営方針として“Service, Not Self”が説明されたが、多くの人々がフレーズだけを見て宗教倫理に立脚するものと誤解することとなった。シェルドンの標語と同じ意味を持つと言われるその真意の解釈違いは、両者の対立論議を惹起した。(オーレン・アーノルド著の“Golden Strand”の記述は間違い)。
1912.8.6:カナダのウィニペグRC設立に始まるロータリー国際化は、このデュルース大会で全米連合会から国際RC連合会へと発展し、グレン・ミード会長となり、ポール・ハリスは終身名誉会長(Presidennt Emeritus)となった。ペリーは引き続き事務総長となり、1942年の退職まで連続32年間職を全うして「ロータリー建設者」「ザ・ロータリアン創刊者」の名で称えられる功績を残した。ポールはこの後、1926年頃までは各年次大会などへの激励のスピーチや論文を送ることはあっても、ロータリー活動の表舞台に立たず謙譲の姿勢を続けることとなった(ひとまずの引退)。
1915年:ロータリーの職業倫理宣言として11か条の「道徳律」が採択された。Sevice,Not,Selfの立場が濃厚だがそれを除けば現在に通ずる立派な宣言。
1916年:ハリス&ラインハルト法律事務所をファーストナショナル銀行ビルに移設して職務を拡大。
1917年:アーチ・クランフ会長がロータリー基金を提唱(ロータリー財団の創立 6/18)。その11日前にライオンズクラブが創立されている。ポールとシェルドンの見解に不協和進む。
1919.夏:デンバー居住の母コーネリア死去。
1922年:国際連合会は国際ロータリー(RI)と改称し、ロータリーの理念と原則が世界的統一を見たのである。現在に至る組織上の原点
1923年:理念の深刻な対立を解消したセントルイス大会決議34号(23-34)が成立し、理念と実践法則が集大成されロータリー中興の原点となる。シェルドンとの不協和顕在化する。
1925.春:ポール夫妻は懐かしくウォーリングフォードを訪問して旧交を温めた。
1926.3.17:健康回復に伴ってRI名誉会長としての公式活動を再開し、この日バミューダRCを訪問して継続した。
1926.12月:父ジョージがデンバーで死去。
1927.4.28:生誕の地ラシーンRC訪問。この年、RIは目標設定計画:を発表し、四大奉仕部門制による体制確立となった」。
1928-31年:病のため療養。
1930年:シェルドン(ロータリーの哲学者)退会。ポールとの決別。
1932年:ハーバート・テイラーが「四つのテスト」発表(後にロータリアンの行動基準となる)。
1932〜34年:海外各地をジーン夫人と共に歴訪。
1933年:バーモント大学名誉法学博士号受領。(冤罪の名誉回復)
1934年:“This Rotarian Age”発刊。
1935.2.9-10:マニラ太平洋地域大会出席の途中、日本を夫妻で訪問し、東京帝国ホテル前庭に友愛の樹(月桂樹)を植樹。諸会合出席後に関西へ向かい、任務終了後マニラへと出航した。世界各地に植樹された28本のうちのこの1本は、戦後枯死の危機から二世樹8本のみが生き延びて7本が数カ所で健在である。当2710地区でもポール・ハリス没後50年を記念して広島西RCの手で三世樹が移植、管理され成長している。
1941.5月:ラシーンRCを公式訪問。
1946年:第二次世界大戦の経過と終結を見ながら、病床の中で「My Road to Rotary」を完成。
1941.5月:ラシーンRCを公式訪問。
1947.1.27:ロータリーは私の少年時代のニューイングランド地方の人々の特長であった寛容と善意と奉仕の精神から生まれたものであり、私はその精神のうち自分にあるものをすべて自分なりに伝えようとしてきた」と語り、「子供の無い私たち夫婦は国際ロータリーを養子にしたのです」とも述べたポール・ハリス。人類文化史上光り輝く「ロータリーの創設者」として数々の事績・名言を残して、78歳の生涯を静かに閉じた(4:15pm)。唯一生存していた末弟レジナルドへ死の5日前にも便りを書いて兄弟愛の深さを見せている。
彼の自叙伝として、そしてその三分の二が幼少期から成人までの思い出に費やされている“My Road to Rotary”はポールの死後1948年に出版された。
ポールの墓はシカゴ郊外マウントホープ墓所にあり、盟友シルベスター・シールの隣にロータリーマークが美しく刻まれて並んでいる。
ボニーと呼ばれ、ポールのみならずすべてのロータリアンに敬愛されたカムリーバンクの女主人ジーンは、その後ロータリー創立50周年記念大会(1955年)でロータリー創立者ポール・ハリス夫人として丁重に紹介されたのを機会に、故郷エジンバラに帰国した。弟、妹と共に余生を過ごし、1963年、82歳で死去して遺産38,900ドルをロータリー財団へ寄付した。
余談だが、ポールの三人の弟のうちガイは早逝(11歳)し、クロードも若くして米西戦争で戦死したが、末弟レジナルドは1958年、72歳で死去している。ライオンズ国際協会の弔辞によれば、1905年2月23日ロータリー創立の日、19才の彼は711号室に同席したとある(ロータリーには記録が無い)。その後、高学歴を身につけてロータリー会員となりララミーRC副会長、1929年ー32年はRI事務局に勤務し,弔辞の言葉では”勝ち馬に賭ける”(bet on a winning horse)と言う気持ちでライオンズへ鞍替えしたとの記述がある。ライオンズでは大きな貢献をしたと記録を発表しているが、そんなレジナルドでもポールは死の直前まで心優しく思いを馳せていたのである。
”ロータリーは宗教と同じではなく、それに代わるものでもない 。古くからある道徳観念を現代生活、とりわけ職業生活に適用しようとするものだ”とポールが語ったように彼を神格化して論ずる必要は無い。その人物像は著書の翻訳者である米山梅吉氏曰く、「ポールはロータリーのような大運動を起こしたような人に似合わぬほど敬虔で遠慮勝ちなこと、きわめて文学的天分に富む名文家であること,実践の人であって艱難辛苦を嘗めてきた生涯から得た温かい人情味が一貫して友交の重きを知らしめている。そしてロータリーの精神がそこから発想されて、宗教ではない万人に通ずる道徳として”己が他より施されんと希う如く他に施せ”という古来の心理が輝きを持って、各人の人生を有意義なものとするに寄与すると確信したのである」と。ロータリアンは彼の友情と人類愛に満ちた心が根本原理となってロータリーを生み、現在に至る「奉仕(サービス)の理念」があることを決して忘れてはならないのであります。
現在ロータリーでは、1947年のポールの死によって集まった巨額の追悼基金を機会にロータリー財団が本格的活動を始め、今ではポリオ撲滅を最優先目標として世界的な人道的奉仕活動の推進を強化している。その努力と成果は大きく評価するところであるが、変革を叫ぶあまりに他方でその基盤たるべき“サービスの理念”の真意を理解した職業奉仕の正しい認識と強調が希薄になっているように見える。人間形成の場としてのロータリー、そしてそこで培われたサービスの心の実践、この双方が偏することなく進行するよう結論づけた決議23-34採択の際の真剣な議論を今こそ想起、再現すべき時ではなかろうか。ポール・ハリスの言葉の一部だけを都合よく強調して急速な改革ばかりを語るのは失敗の危険性の大なることも思い、大いに批判的に且つ真剣に検討、対応を考えることが新時代のロータリー発展の鍵だと思っている。
ロータリーはポール・ハリスの心から

【主要参考資料】

  • “The Founder of Rotary” ポール・ハリス著(1928年)
    「ロータリーの創設者」 米山 梅吉訳
  • “This Rotarian Age”  ポール・ハリス著(1935年)
    「ロータリーの理想と友愛」米山 梅吉訳
  • “My Road to Rotary” ポール・ハリス著(1948年)
    「ロータリーへの私の道」 柴田 実訳
  • “Golden Strand” オーレン・アーノルド著(1966年)
    「Golden Strand 黄金の絆」 田中 毅訳 ・「ロータリー歴史探訪」田中毅著
  • “The First Rotarian” ジェームス・P・ウォルシュ著(1979年)
  • 「ポール・ハリス 偉大なる奉仕の先覚者」是恒 正訳
  • その他多数
     

(2016.02.19)

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