「正月雑感」
2650地区 GN 刀根荘兵衛(敦賀)

PDF版 ダウンロード



2650地区 GN 刀根荘兵衛

 世の中はいまや歴史的な分水嶺にきているという。年末からお正月にかけて最近の世界情勢を少しでも勉強してみようと何冊か本を読んでみた。
 その中で、直接、経済とは関係はなかったが、五木寛之の「人間覚悟」という本が一番印象深く心に残っている。
 五木氏によると、これからの世の中は数十年続く下り坂の時代であり、国家にも人の絆にも頼ることなく生きていかねばならない時代となったという。そのためには、『覚悟』を決めて自分の人生と向かい合わねばならない。そして、『覚悟』とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも絶望でもなく、事実を真正面から受け止めて、「地獄は一定」という気持ちで人生をリセットし、生き生きとした人生を歩むことなのだそうだ。
 ところで、江戸時代の禅僧、良寛さんの有名な言葉にこう言う一節があります。
『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時は死ぬがよく候。是はこれ災難をのがれる妙法にて候』
 これは地震の被害者に宛てた手紙のなかにある一文だそうですが、自分の置かれた環境から逃げずに、しっかりと受け止め、そこにある意味を噛みしめて生きることで、一筋の光明が見えてくるということだと思われます。
 大変厳しい時代となりますが、看却下で覚悟をきめて歩むことにしなければと改めて感じた年の初めでした。

ロータリーアンの覚悟
 五木寛之氏によるとボランティアにも覚悟がいると言う。ロータリーの奉仕活動とも重なり合わせると、なるほどと納得することが多い。 五木氏の言葉をそのまま引用する。
 1995年阪神淡路大震災が起きたとき、ボランティアとしてたくさん人が被災地に向かいました。 若い人の中には、骨を埋める覚悟で行くという人もいるほど熱気があったのに、地震から二、三年経つと、その人たちが私にこぼすようになったのです。「はじめは涙を流して喜んでいた人たちが、そのうち慣れて小間使いのように自分たちをこき使う」、「やってくれるのが当然という態度で、ありがとうの一言もない」など。
 しかし、私はこう思うのです。「それは君たちがまちがっている。そもそもボランティアというのは、最後は『石もて追われる』存在であるべきなのだから」。
(中略)
 最後にみんなから大きな感謝ともに送り出される、などと考えてはならない。「もう帰っていいよ」と言われたら、「はいそうですか」と帰ってくればいい。いい体験をさせてもらいました、ありがとう、と心の中でつぶやきつつです。そう覚悟してこそボランティアなのだと思います。

このような記述であった。
 そもそもロータリーの奉仕活動もこのようなものなのだろう。最近、ロータリーが一般市民に理解されていないとか、ロータリーを世の中にもっと広報しなければとか言われているが、奉仕活動と言うのはそもそも人から感謝されることを目的にやっているものではない。
 五木氏が言っているように、その中でもし誰かが、「ありがとう」と言ってくれて、もし相手に想いが通じたなら、狂喜乱舞すればいい ということになる。
 我々はどうしても、「○○してやったのに」と言う言葉がつい口をつく。こんな『のに』の気持ちや『グチ』をすこしでもやわらげてくれるのが、ロータリーの本当の役目かもしれないと感じた次第だ。

ポリオプラス運動の先駆者

2008年11月25日

 先日のロータリー研究会でロータリーのポリオ撲滅運動の先駆者は二人の日本人であり、この二人ロータリアンの献身的な努力のおかげで今日のポリオプラスがあること初めて知った。
 大変驚くと共にこのお二人の命をかけたご努力に心よりの感謝と日本人としての誇り感じた。
 このことは歴代のRIの会長、財団管理委員長、RI理事の皆さんも大概ご承知だそうで、ポリオの先駆者であったこの2名の日本人のロータリアン(山田氏、峰氏)に感謝しているということであった。
 聞くとことによると、山田氏は富士ゼロックスに勤務され、外国語も非常に堪能でアジア担当の総責任者として活躍されたそうだ。その後、東京麹町RCに入会し、地区のWCS活動に参加するなかで、南インドの3Hプログラムに参加したときに、たまたまポリオにかかり手足がまひした少年を見たときに大きな衝撃を受けたと言う。夜だったので周りがよく見えなかったが、何か物音がする方を見ると、大きなクモが近づいてくるように思え、一瞬びっくりしたそうだ。しかし、よく見るとそれは人間であり、その手足の不自由な子供が歩いていることが分かった。その瞬間、山田氏は動物か何かと勘違いした自分が恥ずかしくなり、何としても子供がこんな病気にかからないようにしてあげたいと言う強い気持ちに襲われたそうです。

(山田氏はポリオ撲滅のための講演のたびに、この話を涙ながらに何度もお話したそうです)
 これが、山田氏がポリオに一生を捧げるきっかけとなり、その後地区WCS活動として同じクラブの医師、峰氏とともに何度もインドを訪れ、ポリオ撲滅に尽力をされた。そして、RIに対しては何度も嘆願書を送り、ポリオ撲滅に立ちあがるようにお願いをしたと言うことでした。
 その甲斐があって、ついにRIはポリオ撲滅に本格的な力を注ぐこととなり、今日に至っているそうです。 しかし、お二人は志半ばでインドで風土病にかかり、相次いで亡くなられました。

 ちょっと前まで、ポリオ募金については、これで最後と言いながら、3度もポリオ募金を強制するとは何事だと考えていたものだが、このポリオプラスが日本人が提唱者であり、その夢がもう少しで達成されるかもしれないということであれば、山田氏、峰氏の偉業を少しでも早く達成するために、日本人としてもできる限りしなければと感じた次第だ。
 現在、東京麹町RCでもこのことを知っている人は少なく、当時の山田氏や峰氏をよく知る人はいないと言うことであった。
 2650地区でもこのような話は聞いたことがなく、ほとんどロータリアンはこの事実を知らないと思う。
 是非、地区の皆さんにもこの話を語り継いでいかなければと思っている。

 ちなみに、詳しい資料を、2580地区のホームページから抜粋してみた。
 20年の年月をかけ、ロータリーにとって、初めての地球規模の財団プログラムが全世界のロータリアンの協力を得て終結しようとしています。
 このポリオ撲滅という世界的な大事業の達成を目前にしにして、世界中から賞賛されている、「ポリオプラス活動」は、ロータリー財団の誇るべき活動であります。
 しかし、その重要性をはじめて国際ロータリーに説き、自ら率先して現地でのワクチン投与活動に活躍され、広く募金を呼びかけ、ロータリー財団の大きなプログラムとして組み入れ、この計画の推進に、命をかけて献身された当地区のロータリアン山田ツネ(東京麹町RC)さんの偉大な足跡と、山田さんと共に活躍された峰英二(東京麹町RC)さん、そして、お二人の後を受けて、活躍された沖縄・那覇西RC の二人のロータリアンについてご紹介しようと思います。
 山田ツネさんについて、私がお話しすることは身びいきになるやに思われ、懸念しておりましたところ、幸いな事に、先ごろ他地区である2660 地区の戸田孝PG が「ポリオプラスに命をかけたロータリアン山田ツネさんに学ぶ」と題して月信に紹介されていました。戸田PG のお許しを得ましたので、その文章を引用しながら山田さんの足跡をご紹介したいと存じます。

 国際ロータリーは1978年の東京国際大会において、3Hプログラム(保険、飢餓追放、人間性回復)を発表し、1983〜88年にポリオ・プラスプログラムに発展、創立100 年にあたる2005年までに、ポリオを地球上から撲滅する計画を決定しました。
 ポリオの撲滅は、全世界の幼い子供を持つ親たちの強い願いであったのです。このポリオ撲滅という壮大な計画を発足させるきっかけを作ったのは、日本人であり、当2580 地区のロータリアンであったのです。そのロータリアンこそ、山田ツネさんなのです。
 ロータリー財団管理委員長カルロス・カンセコ氏は、正式の文書のなかで、次のように述べています。「私はボランティアたちによる一つの奉仕プロジェクトから、また新しい奉仕プロジェクトが生まれたことを実際に見ています。東京麹町ロータリークラブの山田ツネさんは、1981 年からハシカの免疫プロジェクトを監督するために、ボランティアとしてインドに行きました。その経験を生かし、このボランティアはポリオ免疫プロジェクトを発足させてきたのです。」と述べておられます。
 戸田PGと山田さんの出会いは、1986年、に続き87年の国際協議会にグループリーダーとして参加した時であります。この年度の協議会は特別のものでありました。「長期間の準備を終えて、この年度からポリオ計画の募金活動が始まったのである。朝9 時から5 時までの部門別のセッションを終え、夕食後7 時から11時まで日本語グループでのポリオ計画の説明が2回にわたって行われました。説明者はインターナショナル・コーディネーターであった山田ツネさんで、彼の経験に基づいた詳しい説明と具体的な募金方法、そして質疑応答などが行われ、参加者全員が始めて耳にする壮大な計画に、果たして成功するかどうか誰もが不安を覚えたものでした。

 山田さんは、ポリオ免疫プロジェクトを始めることになった動機を次のように話しています。「私がインドへ行ったときのことです。夜遅くまで続いた会議の帰り、ギョッとして立ち止まった。ガサガサと音がしたのです。犬か猫が餌をあさっているのかと、音の方向を凝視した時、月の明かりで私が見たものは、芝生の上をやせ細った少年が、手と肘を使って這っている姿でした。それは、今思い出しても胸が締め付けられるような痛々しい光景でした。

 多分幼い頃にポリオにかかり、足が麻痺してしまったのでしょう。この少年の姿を見たとき、私は、南インドの子供たちを日本人の手でポリオから救いたいとの思いが生まれたのです。」
 山田さんは、1981年からボランティアとして、インドのハシカ免疫プロジェクトである4週間の奉仕活動に従事されました。その経験を生かして翌年、南インドのポリオ免疫プロジェクトを推進され、近隣13クラブの共同奉仕として活動の巾を広げ、更に東京地区の100以上のクラブの協賛を得て、奉仕の巾が更に大きくし、効果も上がってまいりました。
 山田さんは講演の最後に「世界は急速に変わっています。人間が月へ旅行できること、他人の臓器で生命を救うこと、生活水準の向上など・・・、しかし世界の子供たちはみんな健康で幸福に育っているでしょうか? 日本や先進国は恵まれています、しかし、発展途上国では想像もつかないほど悲惨な状態が続いています。どうか、皆さんの手で発展途上国の子供を救ってあげてください!お願いします。」と目に一杯涙をためて、深々と頭を下げて話は終わるのでありました。参加者の拍手はいつまでも鳴り止みませんでした。
(参考までに、RI は1986年7月から向こう5ヵ年間の継続事業として募金活動をする異例の決定をしました。その内容は5年間に亘り地球上からポリオ、ハシカ、ジフテリア、結核,百日咳、破傷風などの撲滅を願い1億2千万ドル(約200億円、日本担当分40億円)を目標として募金キャンペーンを実施することでありました。

 1991年6月募金総額は2億1732万ドルに達し、当初の目標をはるかに超えて、このキャンペーンを終了しました。日本での募金総額は48億9856万8628円に達したのであります。)
 山田さんの次の年度の地区世界社会奉仕委員長を勤められた同じ麹町RC の医師でもある峰英二氏は、常に山田さんと一緒に、南インドでのワクチン投与の奉仕活動に従事され、度々インドに行かれ、活躍されました。
 その山田さんは1988年7月12日に、東京麹町ロータリークラブ会長在任中に病に臥され、その後間もなく逝去されました。享年64歳。病名は定かではありませんがインドでの風土病とも言われています。
 一緒にインドで活動された同僚の峰英二氏も山田さんの後を追うように、1989年6月9日に病没されました。享年69歳。
 このお二人は、まさにポリオプラス活動の世界的規模の運動への発展の原動力・推進力となり多大の貢献をなされました。お二人は、目的達成を目前にした現在のこのプロジェクトの状況をどのように見ておられるのでしょうか?目的達成の報告を受けた時には、直ちにお二人の墓前にその報告に伺いたいと思っております。
                         

2014年01月20日

「正月雑感」PDF版 ダウンロード

「ロータリアンの広場」トップページ

ページのトップへ戻る