「陰徳は時代遅れか」
2650地区 GN 刀根荘兵衛(敦賀)

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2650地区 GN 刀根荘兵衛

 CLPが広く浸透するようになって、広報がロータリーの大きな柱の一つとなった。広報担当者は、世の中に声高らかにロータリーを広報することが、ロータリーの為になり世界平和にも貢献すると言う。『陰徳こそ美徳』なんて、もう時代遅れと言うことだ。一見もっともな理屈のように聞こえるが、あまりにも欧米合理主義的な浅ましい発想ではないだろうか。我々はそもそも世の中の人に認めてもらうためにロータリークラブに入会したのではない。
 それではなぜロータリーに入ったのだろうか。1985〜86年のRI会長エドワード・カドマン氏はこう言っている。

「誰もがこの世の中を変えようとしてロータリークラブに入ったのではない。大部分の人間は、仲間が広がる機会を求めて入会したのです。」と。カドマンRI元会長が言うように、フェローシップを求めて入った会員は例会を通じて徐々に心を磨き、奉仕の感動を得ながら、すこしずつ真のロータリアンになっていく。
 そして、この心を磨くことは、職業奉仕、すなわち徳のある経営につながっていくのではないだろうか。

 我々日本人は古来から倫理的価値観として、「信」「義」「仁」と言う考えを大事にしてきた。(まわりの人や社会からの信頼を失わないと言うのが「信」、「義」とは、正しいことを行うこと。「仁」とは、相手の立場に立って物事を考えること。)
 渋沢栄一も「道徳経済合一説」を唱えた。これは、営利の追求も資本の蓄積も、道義に合致し、仁愛の情にもとらぬものでなければならないという考えだ。
 現在、日本社会で起こるいろいろな不祥事や「親が子を殺し、子が親を殺す」と言った悲惨な事件やモンスターペアレンツの登場などを見ると、もはや日本社会にもはやこんな精神的支柱がすっかりなくなっているためではないだろうかと思わざるを得ない。

 日本のロータリーの創始者である米山梅吉翁などはまさに『徳』に生きた人だ。米山梅吉翁は生涯ほとんど自分の全財産を恵まれない人々のために投出し、しかもそれが自分からの施しであるということを知らせないようにして死ぬまで奉仕を続けられた。そのお陰で、たくさんの学生が大学に進学できたり、貧しい生活から救われた。  論語に『徳は弧ならず』と言う言葉がある。出石・但馬における二宮尊徳と言われた平尾厚康は『常に心懸けて陰徳を積むべし。陰徳とは善事をなして、その善を人の知らんことを求めざるをいう。貧窮を救い、餓寒を憐れみ、老人を助け、病人をいたわり、生きるものを殺さず、万慈悲を心の根とすれば、自然に天道の冥加にかないて、家長久なるべし』と諭されている。『善徳、子孫にめぐりて子孫の幸となる』(玄通居士)という言葉もある。

 安岡正篤氏は『忙人の心身摂用法』の中で『常に陰徳を志すこと』とその重要性を指摘されている。
 聖書にも「良いことをするときには、人のたくさん通る街角ではなく、人の見えないところで密やかに」と記されている。
 どんな良いことでも、これ見よがしに鉦や太鼓を叩いて大騒ぎしているうちは”偽善”でしかないということだ。
 人に見えないところで実践してこそ”光る”のだ。これが本物なのだ。
 今一度、論語などの古典を読み返し、徳のある本物の生き方を見つめなおし徳のあるロータリーを目指していきたいものだ。

2014年02月14日

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