「ロータリーのお稽古」
![]() 2510地区 PDG 塚原房樹 |
《人生の峠を超えて/over the hill》
私は馬齢を重ね、人生の峠をとっくに超えて終期高齢者となりました。35年間の私のロータリーライフを振り返ってみると三度の転機がありました。クラブの幹事・会長時代、ガバナーのころ、パストガバナーになった今の三段階です。三段階の転機といえば皆さんの中にはヘーゲルの弁証法(発展の法則)の「正・反・合」を思い出される方もおられるでしょう。
「正」とは物事の最初の未分化の状態、つぎに「反」はこの最初の状態が反省され、そして最後に「合」は正・反を踏まえて高い次元に至った状態で「三部法」とも言われます。
この「三部法」と同じように日本にも物事の発展段階を示す言葉に利休の「守・破・離」という教えがあります。「守・破・離」とは「稽古」を積む課程、すなわち修行における三段階の順序を表す言葉です。まず師の流儀を習い、励み、次に独創性を養うことを重視した教えであります。
一般的には、「守」は、ひたすら師の教えを守り、繰り返す段階。「破」とは、今まで学んで身につけた教えから一歩進めて概念を破り、独創性を養う段階。「離」は、自在の境地に至り、師の許を離れる段階として説明されます。「守・破・離」は芸道だけではなく学問にも経営にも技術にも、ロータリーにも、すべてにあてはまるものなのです。私も迷いながら歩いてきた自分の「ロータリーライフ」を利休のひそみに倣って振り返ってみます。
《「守」の頃》
入会して6年目でクラブ幹事になりました。クラブ運営の事務方として運営手続きに精通していなければなりません。ひたすら手続要覧と首っ引きの毎日でした。綱領はもちろん、定款・細則、2つのモットー、決議23―34、倫理訓を始めロータリーの管理運営に関する組織規定を頭に詰め込みました。しかしロータリーを習うには文献・資料のみでは絵に描いた餅にすぎません。
クラブ運営の実際面を学ぶには「善智識」が欠かせません。「善知識」とは、仏教の言葉で正しい道理を教え、導いてくれる人を指していいます。
当時は中央大学教授、小堀憲介氏主宰の「千種会」というロータリーの勉強会が札幌で定期的に開催されていました。「ロータリー発生史」、「ロータリー思想の理論構造」、「ロータリー組織の理論構造」などを体系的に学びました。
私のロータリー理論の基礎は「千種会」によって築かれました。また地区の文献史料室委員長を務めたおかげで多くの貴重なロータリー文献に触れることができ、「ロータリーの存在理由」、「ロータリー運動とは何か」を学ぶことができました。
クラブ会長になったのは、入会20年目の時でした。会長の任務としてロータリーの知識はもちろん必要ですが、知識よりむしろクラブの運営には人間学とでも言いましょうか、人情の機微を踏まえて「和して同ぜず」の精神の大切さを学びました。
《「破」の頃》
ガバナーに推薦されたのは入会してから28年目の時でした。ガバナーの役目はRIとクラブを結ぶパイプ役です。つまり国際協議会で学んだRIの方針をクラブに伝え、クラブの情報をRIに伝えます。そのために公式訪問があります。
ガバナーの最大の任務は公式訪問に尽きます。地区内73クラブを回りましたが、それぞれのクラブは独自の伝統と家風を持っています。各クラブは標準クラブ定款に基づき管理されることになっています。しかしロータリーは社交クラブと呼ばれる、社会構造の中で機能している社会性の一番弱いもので、本来それに参加するも参加しないもその構成メンバーの自由意志です。
われわれは世のため人のために奉仕の理想を掲げて、団結していかなければならないというロータリー運動の崇高性の故にロータリー運動から社交クラブ性が失われてはなりません。
ですからロータリーの定款細則などを、国家法を解釈するように解釈したら間違いです。RIの基本方針(1962―63)には『管理に関する定款及び手続き上の制限は、ロータリーの根本的かつ比類のない特徴を保持するために必要な最小限度にとどめられている。このような規定内にあっては、特に地方的実情において、国際ロータリーの方針を解釈し実行するにあたり最大の融通性を認めるものである』と明記されています。
比類無き特徴とは皆さんもうすでに御承知の通り、職業分類と例会出席の二つです。言い換えるとこの二つだけはロータリーのバックボーン(中核思想)ですからこれを失うとロータリーという名前は残っても、もはやロータリーではありません。RI の管理運営の根底にある基本原則は、加盟クラブの大幅な自主性であります。地区レベルと違い、特にクラブレベルでは、RI の方針の解釈と実施において最大限の柔軟性(カスタマイズ)が認められています。
クラブ幹事の時代は組織規定を忠実に学ぶ「守」の時期でした。しかしガバナー公式訪問で学んだことは、「人見て法説け」という「柔軟な悟り」でした。
《離の時代》
パストガバナーになりRIレベルで、ロータリー運動の「根本問題」に触れる機会が多くなりました。
第一の問題点は、ロータリーは巨大化し、ロータリー運動の目的が変わってきたことです。およそ人間の営む組織というものは、政府であれ民間団体であれ大きくなればなるほど官僚化します。実際にこなさなければならない仕事量に関係なく、官僚の数はどんどん増え続けていくというもので、もちろん官僚が増えれば、その分仕事がなければなりませんが、それは実際に必要ではない仕事を創造することでまかなわれます。その仕事を正当化するために隠れ蓑としてやたらに委員会や審議会を作ります。
一般論で言いますと、「組織を作った人々の当初の目的」と「作られた組織が持つ目的」は、当初は同じでも、組織が大きくなるにつれ変化します。
そしてさらに組織が拡大するにつれ「組織自体の目的」のために、「組織を作った人々の目的」が否定されることにもなりかねません。組織というものは、まず組織を防衛するのであって、組織を作った人々を防衛するのではありません。こういう状態に陥った組織は非常に厄介です。組織の発展段階で「それはおかしい」とか「それは我々の目指す方向ではない」という意見の持ち主は淘汰整理され、残っているのは巨大化した組織で食べている人、変質した目的が達成できると信じ込んだ人ばかりになります。
今のロータリーはそうでなければいいのですが。しかし、組織管理の体系として、官僚制に勝るものがないというのも実状です。
第二の問題点は、そもそも資本主義経済の成熟した先進国とアフリカやインドのロータリークラブを同じクラブ定款で統治しようというのが間違っています。多額の援助金を出す国と、それを求める国とでは金銭感覚が全く違います。まして先進国の会員は減少して、援助を要する国の会員だけ増えていくとしたらどうなるでしょう。ロータリーの進路を決める規定審議会は援助を要する国の多数の会員の主張が主流となります。そうなれば「標準ロータリークラブ定款」の標準値は低くなるのは当然です。
以前はロータリーの知識を追い求めました。しかしパストガバナーになって道元禅師の「尋言逐語の解行」(じんげんちくごのげぎよう)と「回光返照の退歩」(えこうへんじょうのたいほ)という言葉の大切さを知るようになりました。
尋言逐語の解行とは、他人の言葉あるいは理論・思想を追いかけ、それに従って物事を考え、理解してゆくことです。回光返照の退歩とは、そのような追従的な理解の仕方から一歩退いて、いわば「意識の光」を、言葉や理論から自らの心の中に起こる出来事に回らして、それを照らし出し、その照らし出されたその当体とは何であるのかと自らが直接、自らの中の出来事を観察していく、そのような生き方を言います。つまり単なる知識、物知りではない。物と親身に交わる、物事と自分が出会ったとき、身に感じて自分の中に起こる知的な働き、それが考えるということです。とすれば物を外から知ろうとするいわゆる物知りは、まるで考えるということをしていないと気付くはずです。
苦労しないでネットから得た情報は、知識が一つ増えただけのことで、そこには何の発明もないことに気付かないでいます。
道元禅師の訓えは私のような凡人には難解すぎますが、私の余生の課題として噛みしめてまいりたいと思います。
私たちがロータリーに出会ったとき、何を感じ、何を思い、どんな変化が自分の中に起こったか、それを自問自答してみなければロータリーの理想は自分の血肉となりません。まず自分に問うことです。問いを発見することです。
参考文献 道元禅師「普勧坐禅儀」・堺屋太一「組織の盛衰」
(2014.02.26)