『薄れゆく神への畏れ』
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)

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2510地区 PDG 塚原房樹

《ロータリーと資本主義》
 米山梅吉氏の三男、米山桂三氏は伝記「ロータリーと父米山梅吉」の中で、ロータリーの歴史について次のような記述をされています。「ロータリー運動というものは社会経済史的に見て、それは資本主義の発達という歴史的必然と資本主義の欠陥を救おうとする人物の出現という歴史的偶然との交錯したところで生まれた運動であると考えている」
 もちろん資本主義の欠陥を救おうとする人物とはロータリーの創始者Paul Harrisを指しています。アメリカでは19世紀末から20世紀の初頭にかけて資本主義経済が独占資本主義の段階に達しつつありました。そのため資本主義の欠陥も現れて、労使の対立、抗争も激しくなりました。
 このような事態の下では、当時としては中産階級を地盤に、労使協調主義や社会改良思想が生まれてくるのは当然でした。Paul Harrisが親しい友人3人と語らい、何か社会のためになるような仕事のできる集まりを始めようとしたのが、ロータリーの誕生となりました。ちょうどその時が初期資本主義が最盛期を迎えた1905年であったことは興味あるところです。ロータリーは誕生のその時から資本主義の欠陥を補う宿命にあったのです。ではPaul Harrisとその仲間達は、どのような手法で資本主義の暴れ馬に手綱をかけようとしたのでしょうか。

《ロータリーは神を抜いたピューリタニズム》
 Paul Harrisは、「ロータリーは決して宗教でもなければその代用物でもない。それは古くから存在する道徳観念の現生活における、ことに職業生活における実践にほかならない」と述べました。アメリカで生まれたロータリーはキリスト教のピューリタニズムがベースです。しかしPaul Harrisはロータリーの信仰の自由を表明するため、キリスト教のにおいを消そうと努めました。そこで「ピューリタンの戒律」を「古くから存在する道徳観念」と表現しています。幸い古来すべての宗教に内包している道徳観念は、盗む勿れ、殺す勿れ、姦淫する勿れ、貪る勿れ、嘘をつく勿れという五ケ条でした。これらは人間の欲望の自戒を説いており、実践活動の指導原理に置き換えると正直、献身、誠意、友愛、寛容、勤勉、隣人愛となるでしょう。ロータリーの草創期一握りのロータリアンたちは資本主義の中で生活しなければならないので、まずその過激な商業上の生存競争の勝利者にならなければなりません。
 当時のロータリアンたちは皆ピューリタンでした。そこで劣悪な資本家に対抗するために、彼らはその競争の手段としてあくまで正直、勤勉を前提とし友愛を根本とした企業経営をおこない、商業道徳を上げるということに専念しました。そしてその商業道徳の高揚による行動が信用を生み、やがて自己の企業に利益をもたらし、資本主義の世界で勝利者となっていきました。初期のロータリアンたちは企業経営にキリスト教の教えを実践していったのです。

《薄れゆく神への畏れ》
 ロータリーは本来中世キリスト教神学の復興運動でありますが、日本にやって来た時には背後にある神は置き去りにされました。先に触れたようにロータリーはピューリタンの戒律を一般生活の中で道徳として実践しようとする運動であります。特にアメリカは日常生活の中に神が遍在しています。
 ちなみにアメリカの全てのドル紙幣の裏には「In God We Trust(神に我々は信を置く)」というフレーズが印刷されています。社会の関係性が成立することを保証する主体が神であります。またアメリカ国歌、政治家のスピーチの中にも神に言及する表現が多くあります。ロータリークラブの例会を教会の日曜ごとの礼拝になぞらえることは飛躍しすぎることかもしれません。
 しかしロータリーの哲学とその組織を考えると、両者が果たしている役割には、共通したものがまったく無いとは言い切れません。哲学と宗教は紙一重です。アメリカのロータリアンの中には日曜ごとの礼拝に欠かさず出ている人はたくさんいるでしょう。彼らは教会の他にロータリークラブの例会にも出ています。ところが幸か不幸か我々の多数はほとんど日常、宗教に関心を持っておりません。

 その結果、現代の社会は、「物と心」の乖離により嘆かわしい倒錯の世相になりました。戦後、GHQは教育基本法を作り、歴史や文化、伝統、宗教を否定し続けてきたのが原因です。特に宗教観の欠如により、自分の思想で自分を律することをやめた日本人は哲学を失い、ふわふわ波間を漂う根無し草となってしまいました。私は無理やり宗教心を植え付けなくてはならないと言っているのではありません。しかし今の資本主義社会の中で、一つのブレーキとして働くのは宗教意識です。
 2008年に起きた100年に一度といわれるリーマンショック以降、金融恐慌の危機的状況はかつてアメリカ人の持っていた「神への畏れ」が崩壊したから起きたのです。強欲になり傲慢になってしまったわけです。「金融工学はまやかしだった」というより「神なき金融工学が崩壊した」のです。個人の意思を離れて怒涛のように動き回るグローバリズムの中でどのように行動することが、合理的であり、倫理的であるのか、ロータリーはここに新しい行動基準を探し求めなければならないのです。

 現在の世界は、資本の論理で動いている世界です。端的にいえば金もうけに向かってすべての人が進んでゆく世界だということです。資本の論理はあくまでも論理であってそれ自体何も悪いことはありません。悪いのはその論理のみを是として神を抹殺したことです。
 ロータリーに奉仕というコンセプトをもたらしたシェルドン哲学の特徴はデカルトが中世神学とたもとを分かってから250年の歳月を経ている時代に「偉大な未知なるもの」人間を超越するものの存在を認識していることでした。
 シェルドンは「もしかりに神なる言葉を好まない人があれば、その代わりにプロビデンスと呼んでもよい。森羅万象が存在すれば、それを作ったものがあるはずでありそれがプロビデンスすなわち造物主である。万物に秩序と掟を命ずる宇宙の摂理、つまり自然界の法則も、人間界の法則も等しく天地の理法から免れないものと考える」と言いました。資本の論理で動いている今の世界に、もしシェルドンの「最も奉仕するもの、最も多く報いられる」「超我の奉仕」という2つの標語が実践されなければ人は住むことはできないでしょう。

《資本主義の行きづまりとロータリー》
 話が多岐にわたりました。とにかく人間の欲望の自戒は、これを経済原理として考えなければならない時代を迎えました。
 今やアメリカ型資本主義は行きづまり、もはや資本主義は利潤を上げる空間はなくなりました。端的に言うならば、どこにも投資先がなくなりました。地理的な市場拡大は終わり未開拓の地はなくなり、また金融・資本市場を見ても、時間を切り刻み、一憶分の一秒単位で投資しなければ利潤をあげられなくなりました。資本主義は、未来世代が受け取るべき利益もエネルギーもことごとく食いつぶし、巨大な債務とともに、エネルギー危機や環境危機という人類の存続を脅かす負債を残そうとしているのです。
 ウェブ革命の今、資本主義の経済原理に起こっているパラダイム転換は、従来のマネタリー経済に代わり、ボランタリー経済の復活です。ボランタリー経済とは、すなわち「自発性の経済」のことで、人々が善意や好意など、自らの自発的意志によって行う経済活動が台頭してきました。
 資本主義が減速し、歴史の危機である現在をどのように生きるか、我々はまさに「神への畏れ」と「欲望の制御」を考えなければならない時期を迎えているのです。

(2014.12.01)

参考文献 『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫

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