『ロータリーを科学する・哲学する』
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)

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2510地区 PDG 塚原房樹

 木を見て森を見ず “Some people cannot see the wood for the trees.”(事物の末梢的部分にこだわりすぎて,本質や全体をとらえられないこと)
 源流の会の皆さんは、昨年亡くなられた、故道下俊一パストガバナーのことを憶えていられる方も大勢いらっしゃると思います。氏は北海道浜中町(名誉市民)霧多布村で、半世紀近く地域医療に奮闘しました。医師・道下俊一さんの半生を描いた、テレビドラマ「潮風の診療所?岬のドクター奮戦記」をご記憶の方もおられるでしょう。
 私はご縁があって20数年来、お付き合いをさせていただきました。道下さんから色々とロータリーについて御教授をいただきました。またよく「ロータリー放談会」をやりました。道下さんはいつも「最近、ロータリーを語れる人がいなくなってしまった」と嘆かれていました。ロータリーを語れる人とは、「ロータリーとは何か」という原理、本質を語れる人のことでしょう。

 ロータリーのような文化的価値を追求する諸団体(ライオンズクラブ、キワニス、また世界宗教と呼ばれるもの)は、必ず二つの要素から成り立っています。

  1. 最初に優れた思想・哲学を持つ団体であること
  2. 次いで合理的組織管理原則を持つ団体であること

 優れた思想には人々が集まります。そのあとで人々のマンパワーを有効に機能させるために組織管理規定が必要になります。

 四国の生んだ天才宗教家、弘法大師さんの密教の秘法が全国津々浦々に及びます。その教えを慕って大勢の善男善女が集まり多くのお寺が各地にできます。それらを統括するために「ご本山」ができます。
 ロータリーも同じで、先人の開発した優れた思想・職業奉仕の哲学を慕って会員が集まる、クラブが世界各国にできる、それらを統括するために国際ロータリーができました。大事なことは、「ご本山」、「RI」が最初にあったのではなく、最初に優れた思想・哲学あったということです。ロータリーを語れる人とはロータリーの優れた思想、哲学を語れる人のことです。

 ロータリーを学ぶには、科学的なアプローチと哲学的なアプローチがあります。ロータリー章典や手続要覧を見てもお分かりの通り、ロータリーは実に多くの歯車から成り立っています。
 「ロータリーを科学する」とは、それらの歯車を別々に分けてその一つ一つについて正確な知識を得ようとするものです。ただロータリーは年々複雑、細分化しすぎて、部分にとらわれていると相互の連携が難しくなり、木を見て森を見ずの弊害が心配されます。
 もう一つロータリーを知るには、哲学的なアプローチがあります。哲学的なアプローチとは、ロータリー全体が対象です。つまりロータリーとは何かという「原理、本質」を問うことです。哲学とはあらゆるものを徹底的に知り抜こうとするもの。哲学とは「生きること」ではなく「知ること」であり「行動すること」では無く「思索すること」であります。
 一言で言えば哲学は「実践」ではなく「理論」であるということです。しかしここに問題があります。それはそのような思索の立場は私たちの現実の生活にとっていかなる意味を持つかということです。別の言い方をするなら「理論」と「実践」とどちらが尊いかということです。

 しかしこの問いに対する答えは明瞭です。なぜなら人生において「実践」ほど尊いものの無いことは明らかです。「生きる」とは創造することです。そうして、その創造は実践行動によってのみ実現されるからです。しかしながらここにこそ最後の、最大の、問題が潜んでいます。それは「いったい、何を創造するのか」ということです。そうしてこのとき、燦然と輝きだすものこそ、「理論」なのです。哲学を失った理論のない実践、それは盲目的であり、動物的であります。人間の行為は、どこまでも理論と理想の上に展開されねばなりません。

 そしてその理論の根本をなすものこそ哲学なのです。哲学と科学は、どちらも必要であるとともに、いずれも一方だけでは不十分であります。要するにロータリーを学ぶには哲学的アプローチと科学的アプローチが欠かせません。

謹んでこの小文を故道下先生に奉げます。
参考・引用文献 哲学と科学 澤瀉久敬

(2014.12.08)

参考文献 『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫

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