ロータリアンの広場


罪を裁きまた赦す神 突き詰めた緊張感
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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2510地区 塚原房樹PDG

 同じ志で結ばれている世界各国のロータリークラブでも、背後にある歴史、宗教、文化により奉仕観には、かなりの温度差があると感じていました。特にアメリカと日本では、ロータリー観、奉仕観についてその背景となる宗教により本質的に明らかな違いがあります。一言でいえば、一神教と多神教との違いでしょうか。キリスト教にはカトリックとプロテスタントがあります。プロテスタントもさまざまな宗派に分かれています。

 ではアメリカで生まれたロータリーの背後にあるキリスト教とは何でしょうか。ローマ・カトリック教会からイギリス国教会が独立しました。このイギリス国教会から16−17世紀にかけて、清教徒と呼ばれる多数のピューリタン諸派が出てきました。このピューリタン一派の人々が1620年にメイフラワー号でアメリカにわたり、ニューイングランドに植民地を建てました。
 ロータリーの背後にある宗教は、英国のカルヴァン派の流れをくむピューリタニズムです。
 カトリックの場合、平凡な人間の欠陥は教会の恩寵手段、例えば懺悔の制度によって購われますがカルビにストの場合はそうではありません。彼にとっては、神の意思か人間の空しさかという二者択一しかないのです。

 キリスト教の根底にあるものは「禁断の木の実」を食べたアダムとイブの原罪説です。ピューリタニズムでは堕落した人間はどんなに修養を重ねても許されません。厳しいカルヴァンの訓えは、彼らにとってこの世は涙の谷であり、やがて終わるべき旅路に過ぎません。しかも彼らは神の栄光を増すためにこの世を少しでも神の国に近づけようと努力し、それが神に許される証となるのです。こうしてこの短い人生の旅路はやがて終わるのだから、我々は昼のうちに仕事をしておかねばならないという緊迫した気持ちを生みます。この世の楽しみを捨てて、すべてを隣人愛の実践にささげねばならないという巨大なエネルギーがほとばしり出ることになりました。そして経済活動を、神の栄光をたたえ、隣人愛を実践する手段と考えました。これが職業天職論すなわち職業奉仕の原点なのです。

 一方、日本の社会は東洋哲学(神道・仏教・儒教)が人々の生活を律してきました。特に儒教ではこの世と人間との関係は徹底した楽観主義に立っています。つまり儒教の考え方によると、この世は様々な世界のあり方の中で最上のもの、そしてキリスト教と全く逆に、人間の本性は善であり、修養すれば仏にもなれます。儒教の目指す人間の理想像は君子という表現で示されます。
 君子は徳が高いといわれていますが、それは道に従うことであり、この道とは一定の理法に従う世界秩序のことです。つまり人倫の道に従うことがこの世で目指す理想となります。儒教ではそうした外面的な作法、世間体を出来るだけ守り、そのために自分を抑制します。寄付金も会長さんが1,000円出すなら、皆も「右へ習え」で1,000円ずつ出します。日本には奉仕の動機に「贖罪」といった意識はありません。
 このように信ずる宗教の違いにより奉仕観に決定的な差が生じます。儒教での罪は秩序と調和を破ることであり、それは償いうる過ちであって、キリスト教の原罪といったものとはあまりにも遠くかけ離れています。またアメリカと奉仕観が大きく違うもうひとつの理由は、日本にはパブリックという横の概念がなかったことです。社会は身分的な縦の人間関係で成立していました。

 かつて日本の道徳規範であった儒教の四書の一つ「大学」の「修身・斉家・治国・平天下」がよく知られていますが、この縦系列の道徳律に欠落しているのは、欧米における自立した個人によって形成される「社会」(パブリック)という認識です。「斉家」と「治国」の間に「社会」が入るべきです。
 日本の縦の人間関係では、人間の相互関係が働くボランティアの生まれる余地はなかったのです。日本人の控えめな態度を美徳とする生き方にとって、ボランティアはそれを超える精神的エネルギーを必要とするものでした。
 外来思想のロータリーが我々にもたらした一番大きな功績は、ボランティアというと単に「困った人を助けてあげる」ことだと思っていたが、むしろ「助けられているのは自分」の方だという新しい価値観を積極的に我々に与えてくれたことです。

(2015.05.08)


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