「東は東、西は西」
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東RC)

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2510地区 PDG 塚原房樹

《オオカミの群れ》
 もともとロータリーのロータリーたる最大の特徴は一年一年ローテーションすることです。RI会長もガバナーもクラブ会長さんも任期は一年です。しかしロータリーはローテーションしながら創立以来100年間前進を続けてきました。その秘密(絶対要件)はリーダーシップとチームワークでした。
 ノーベル賞作家、ラディヤード・キプリングのジャングルブックという小説の中に“狼は群れの力であり、群れは狼の力である”という言葉があります。狼は一頭でも強い動物です。その狼が群れを作るとさらに大きな力を発揮します。同じようにロータリアンは地域社会の中の一騎当千の職業人です。
 そのような人々の尽きることのないチームワークこそロータリーが継続発展するための力の源でした。しかしそれよりさらに基本的なことは、狼の群れにはどの群れにもリーダーがいるということです。ロータリーの歴史を見ればロータリアンは常にリーダーを用意して、これに従い、リーダーを支援しています。近年RIの提唱するDLP、CLPは、まさにリーダーシップとチームワークの強化を目的としたものです。
 このキプリングのジャングルブックの最初に“東と西のバラード”と言う一節があり「ああ東は東、西は西、この二つが交わることはない」という有名な言葉があります。東と西の相互理解の難しさを表す言葉としてよく引用されます。しかしこのバラードの最後に「しかし東西の二人の勇者が相向かう時には、東も西もなく、国境や民族や生まれの別もない」と繰り返されています。
 決して東西の人間が理解しえないことを強調しているのではありませんが、作者の意図が間違って伝えられた不幸な作品の例といえましょう。

《東洋と西洋の奉仕観》
 ロータリーは日本にとって外来思想です。ロータリーの背景にある思想は隣人愛・愛(アガペー)を説く中世キリスト教神学です。ロータリーの綱領(目的)は万国共通の理念ですが、キリスト教と仏教では根底にある奉仕観に違いがあります。キリスト教も仏教も他の人々への愛を強調します。
 なぜ隣人を愛さなければならないのでしょうか。キリスト教は根源的なものとして神を立てます。その上でさらに神は愛を以って人間を作られたので、自分と同じく神の愛によって作られた隣人たちを愛してゆかねばならないということを強調します。
 仏教はこれに対して、「無我」こそ存在の根本であると考えます。ところで無我といえば一見、全く自己は存在しないというように虚無的に理解されがちです。しかし決してそうではありません。
 無我を肯定的な言葉で言いかえれば「自他不二」ということが言えます。自己がないということは、自分と他人とは二つではない、すなわち同じであるということです。このように自己と他人とは存在的に見ても全く同一であるという認識、すなわち自分も隣人も、生きとし生けるものすべて同じものであるという認識に基づいて一切のものを愛せよと唱えるのが仏教です。
 キリスト教の根底にあるものは「禁断の木の実」を食べたアダムとイブの原罪説です。ピューリタニズムでは堕落した人間はどんなに修養を重ねても許されません。彼らにとってこの世は涙の谷であり、やがて終わるべき旅路に過ぎません。しかも彼らは神の栄光を増すためにこの世を少しでも神の国に近づけようと努力し、それが神に許される証となるのです。
 こうしてこの短い人生の旅路はやがて終わるのだから我々は昼のうちに仕事をしておかねばならないという緊迫した気持ちを生みます。この世の楽しみを捨てて、すべてを隣人愛の実践にささげねばならないという巨大なエネルギーがほとばしり出ることになりました。そして経済活動を、神の栄光をたたえ隣人愛を実践する手段と考えました。これが職業奉仕の原点なのです。
 ロータリーの奉仕観にも、背景には「罪をつまびらかにし、また許す神」との緊張感があります。アメリカでは、杖をついたお年寄りが交差点を横断しようとしているのを見かけると、たちまちばらばらと数人の人が駆け寄り手を貸します。神様は健常者の心を試すためにハンディキャップを持つ人をおつくりになったのです。
 一方日本の社会は東洋哲学(儒教・仏教・神道)が人々の生活を律してきました。特に儒教ではこの世と人間との関係は徹底した楽観主義に立っています。
 儒教の考え方によると、この世は様々な世界のあり方の中で最上のもの、そしてキリスト教と全く逆に、人間の本性は善であり、修養すれば仏にもなれます。儒教の目指す人間の理想像は君子という表現で示されます。君子は徳が高いといわれていますが、それは道に従うことであり、この道とは一定の理法に従う世界秩序のことです。
 つまり人倫の道に従うことがこの世で目指す理想となります。儒教ではそうした外面的な作法、世間体を出来るだけ守り、そのために自分を抑制します。
 財団への寄付金も会長さんが1,000円出すなら、皆も右へ習えで1,000円ずつ出します。日本には奉仕の動機に「贖罪」といった意識はありません。信ずる宗教の違いにより奉仕観に決定的な差が生じます。儒教での罪は秩序と調和を破ることであり、それは償いうる過ちであって、キリスト教の原罪といったものとはあまりにも遠くかけ離れています。
 またアメリカと奉仕観が大きく違うのは日本にはパブリックという横の概念がなかったことです。日本社会は身分的な縦の人間関係で成立していました。かつて日本の道徳規範であった儒教の四書の一つ「大学」の「修身・斉家・治国・平天下」がよく知られていますが、この縦系列の道徳律に欠落しているのは、欧米における自立した個人によって形成される「社会」(パブリック)という認識です。「斉家と治国」の間に「社会」が入るべきです。
 日本の縦の人間関係では人間の相互関係が働くボランティアの生まれる余地はなかったのです。日本人の控えめな態度を美徳とする生き方にとって、ボランティアはそれを超える精神的エネルギーを必要とするものでした。
 外来思想のロータリーが我々にもたらした一番大きな功績は、ボランティアというと単に「困った人を助けてあげる」ことだと思っていたが、むしろ「助けられているのは自分」の方だという新しい価値観を積極的に我々に与えてくれたことです。

(2013.10.22)

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