ロータリアンの広場


「ふるさと」
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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2510地区 塚原房樹PDG

「ふるさと」は人間の心の拠りどころである。今年もまた、北海道にアキアジ(秋味・鮭)の季節がやってきた。人にとってその生まれ育った風土とは? という問いをもって、わたしは一匹の鮭に化身した。母なる石狩川を分水嶺までさかのぼり、「命」の根源である「ふるさと」の町まで戻っていった。…気が付くとあの場所は夢に見ていたわたしが生まれた場所。 おそらく私たちの故郷というものは、国家の起源よりもっともっと遠い無限のかなたに存在するもので、云ってみればそれは小さな「村」なのだ。

 日本人にとって、「村」は血縁や地縁関係にがんじがらめにされていた前近代的な場のはずであった。故郷は古い義理人情の源泉と考えられていた。しかし、そうした人間臭にみちあふれた「ふるさと」こそが、善かれあしかれ人間の「こころ」の原型を創造したのではないだろうか。 ふるさとを失って、都市にやってきた現代の市民は、そこで何か新しいものを生み出そうとして、生み出すことのできない苦悩にあえいでいる。彼らにはもはや帰るべきふるさとはなく、都市の中でしか住めない。しかしそこにはまだ彼らの心を育むためのものは何も作り出されていない。

 地縁、血縁から解放され、ふるさとを失って、個となった個人は都市に出てきていやおうなしに、多量の情報の渦に巻き込まれる。このようにして個人はますます個となる。個人そのものまでが、さらに解体する。そこでは統一された人格の個人というものが存在しなくなる。人間そのものが風化していく。
 しかし、「生」の根源であるふるさとを知る人間は、一粒の砂になりきってしまうことはできない。ここに血縁や地縁から解放された個人が、連帯を求める理由がある。連帯が様々な形をとるが、その一つの現れが無数のクラブ群の結成であった。 現代は情報社会となってから久しい。

 コンピューター革命の影響が、加速度的に我々の生活に侵入しつつある。しかしすぐれた情報をもたらすものは何か。それは人間の頭脳である。農業社会では土地が、牧畜社会では家畜が、工業社会では資本が基本的要素であるが、情報社会では創造的頭脳がその発展を支配する。 変化する現状を読み取るカギは、ルーティングジョブとノンルーティングジョブだ。

 ノンルーティングジョブの世界で搾取されるのは体力だった。今ではイノベーションの能力だ。テクノロジーによってルーティングワークは消えつつある。今度は創造力が新たな義務となったのだ。創造的でないといけない。ロボットになりたくない。人間でいたいというような話ではない。「創造的であれ、さもなくば死ね」と迫られているのだ。では頭脳はいかなる条件の下でより創造的でありうるのか。我々が心を持った人間であることをやめない限り、それは「こころ」を持った豊かな文化の中で育まれた時だと考えられる。

 しかし、現在、世界的な規模で進行しつつある情報化社会は一方では創造的頭脳によって進行しながら、他方では、皮肉にも、そうした創造的頭脳を育てる「豊かな文化」を破壊しつつある。なぜなら情報化社会は、政治も経済も教育もすべて、機械に従属する形で主体性を失ってゆくからである。主体性を失った人間からは、創造的文化は生まれない。 それでは一体、この恐ろしい勢いで進むテクノロジーの世界の中で、我々はいかにして「こころ」を取り戻すことができるのだろうか。私の内部に次第に定着してきた考えがある。それが「ふるさと」という言葉でしか表現できない人間の「こころ」の拠りどころである。

 1905年に、弁護士のポール・ハリスがロータリー・クラブを創設した動機が、大都会シカゴにおける孤独から逃れるためであったことを思い出してほしい。クラブとは、ふるさとから離れた個人が、都会の孤独の中で求める「ふるさと」に代わる拠りどころであり、自己の存在を確認する場である。 遠くに消えた「ふるさと」は悲しいけれども、すでに崩壊した故郷を、我々は復元することはできないだろう。 個人の心が失われつつある現代社会で、我々が為しうることは、ロータリー・クラブが「こころ」を持った創造的連帯として可能かどうかを考えることである。

 今、RIは、民族や国家の利害を超えて、人類全体の存立を考えてゆかねばならぬ時であるとして、国連とともに奉仕活動を進めている。間違ったロータリー運動とは、現代の社会はこうあらねばならないとして、ロータリー運動の指導者・官僚が、ロータリーの会員を道具として使う場合である。そして世間に対しても、自分の思想の目的を押し付ける場合である。 正しいロータリー運動とは、ロータリーの会員が、「ふるさと」に代わるべき集団として精神的に充実した新しい文化を作りながら成長していく場合であり、またロータリー思想が世間に広まり、世間の人が成長していく場合が、正しいロータリー運動である。 

 「NPO」としてのRIと「こころのふるさと」としてのロータリー・クラブの在り方をめぐって、「ロータリー運動」の模索は続くだろう。国連と共に活動するRIの動きは、一足先に高度情報社会に突入したアメリカという国の情緒的・倫理的なロータリー・クラブに対する壮大な実験である。

・・・・かつてロータリー・クラブの例会は、会員たちのオアシスであった・・・・

(2019.10.04)

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