ロータリアンの広場


『プロテスタントとカトリック』
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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2510地区 塚原房樹PDG

 前回、『天職とロータリー』の中で、ロータリーはプロテスタントの信徒たちによって作られたと述べた。 プロテスタントとは、16世紀、ドイツから始まった宗教改革によって、カトリック教会から分離して生まれた新たなキリスト教(新教)である。そもそもプロテスタント(Protestant)とは《反抗する者、抗議者》を意味する。プロテスタントの出現により、キリスト教は分裂し西欧世界に君臨してきたローマ教皇の権威は揺さぶられた。

 1517年、ドイツの神学者のマルティン・ルターは、神は厳格かつ冷酷であるというイメージを抱いていたが、聖書を読んでいるうちに、人間は善行ではなく、信仰によってのみ救われるということに気付き、心の平安を得たという。 やがて当時のヨーロッパ全域で、サン・ピエトロ大聖堂の改修費を賄う為にローマ教皇レオ10世が「煉獄の霊魂の罪の償いが行われる」という文句で贖宥券(免罪符)が大規模に販売されていることを知った。賽銭箱の中に投げ入れられた金貨がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がり天国に行けると説く人たちは、神の道ではなく我欲にまみれた人間の道を説いていた。ラテン語で書かれたその文章をルターがドイツ語に訳し、民衆に流布されることによってその波紋がみるみる拡大してゆき、ついに宗教改革に対する大きなうねりとなった。

 キリスト教のイメージでは、真理というのは楕円です。つまり中心点が二つある。 「信仰と行為」です。両者は一体となっており、切り離すことはできない。キリスト教に置ける異端的な言説は、中心点を一か所に集め、楕円を円に近づけてしまう。信仰の側に比重を置いて、行為の側面を落としてしまう。あるいは行為の側面を重視して信仰の側を落としてしまう。異端的な言説とはプロテスタンティズムで云う「信仰のみ」「聖書のみ」の問題です。

 これは、カトリック教会の「信仰」 と 「行為」という考え方を根本から否定する。信仰があるならば、それはただちに行為になって現れるので、「信仰」 と 「行為」の分離を前提にした両者を 「と」 でつなぐような神学をプロテスタントは拒否するのであった。プロテスタント達によって作られたロータリーにおいては、「信仰」は「奉仕の理念」、「行為」は「奉仕の実践」に例えられよう。したがって、初期のロータリーでは、プロテスタントの「信仰のみ」「聖書のみ」という訓えの通り、「奉仕の心の育成」 と 「奉仕の実践」という考え方を否定した。 両者を「と」でつなぐのではなく「奉仕の心の育成」 即 「奉仕の実践」という「奉仕の一元論」的な考えが主流であったのではないだろうか。

 しかしながら、ともすれば、人類の歴史においては、「信仰」よりも「行為」で救われるかのように錯覚し、教会への慈善の寄付行為や、教会への献金が救いにつながると勘違いすることがあまりにも多かった。 ロータリーにおいても、ロータリー財団へ寄付という「行為」をすると、感謝のしるしとして金額に応じてサファイアやクリスタルの襟ピンが認証品として贈られる。情報技術の急速な浸透により、ロータリーは、会員の寄付によるNPO(非営利組織)に変わってゆく。

 かつて信仰を無視して慈善行為に走り、堕落したキリスト教にルターは抵抗して反旗を翻した。目的は聖書への原点回帰である。ロータリーの聖書は、「ロータリー倫理訓」であったが、すでにない。非才な私は、ルターの才の「かけら」も持ち合わせていない。したがって、現在のロータリー運動に対して、あれこれと批判することは僭越な行為であることを承知しているし、プロテスタント(Protestant)《反抗する者、抗議者》たりえない。しかし、ロータリーを愛するものとして、日本のロータリアンに「行為」のみに重点を置く今のロータリーの趨勢の中で、「奉仕理念」の重要性と「奉仕と実践」の調和を訴え続けていきたい。

 誤解のないように言っておくが、私はキリスト教((旧教)が偉大な宗教であることを疑わないし、その信仰によって人類史上、多大な人間が救われてきたことも知っている。 また明確な自己の意思を持ち、それを実践に移し、「地の塩」となってこられたクリスチャンへの敬意も忘れていない。これからも一人でも多くの人が、その教えに触れ、魂の輝きを増していくことを祈っている。

(2019.11.06)

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