ロータリアンの広場 |
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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第13回 世界こどもハイクコンテスト“夢”がフィンランドで開かれました。大賞受賞作品はフィンランドの11歳の女の子でした。 その作品をご紹介します。 「大金持ちで 何でもできるなら 施しをするわ」 “If I were rich And could do much I would give to others”
学力世界一として話題となっているフィンランドですが、その強い競争力と持続的な経済成長、高水準の福祉社会もまた世界の注目を集めています。女の子の俳句からは、北欧の高社会福祉国家であるフィンランドの宗教離れと税金がとても高いというお国柄と寄付に対する考え方がうかがえます。
私は思わずその夫人にあなたはロータリアンですかと聞きました。いいえといって夫人は去って行きました。しばらくすると中年の男性が幾ばくかのお金を入れました。私はまた、あなたはロータリアンですかと聞きました。ノーという返事でした。時折、通りがかりの人が浄財を入れていました。キリスト教の国では寄付とか慈善という行為は宗教的習慣として広く浸透しているのだなと感じました。町の交差点でも、足の不自由なお年寄りが渡ろうとすると何人かの人がバラバラと近寄り手を貸そうとします。
アメリカでは寄付が日常的で、お金をあまり持ってない人間でも、寄付という行為は身近にあります。ですが寄付大国アメリカの背景にあるのはなんといっても税制です。 この考えは企業においても同じで、寄付や社会貢献に使った金額は会社の経費として法人税の控除につながります。そういった活動は節税と同時にイメージアップにもつながるので、企業にとってもメリットが多いのです。社会に必要なシステムを自分達の寄付金でもって作り出して、自分達で社会を作ろうという意識がアメリカ人にはありますが、日本人の場合は家族を養うに足る収入であればそれで十分だという、天龍寺の蹲にある知足の意識との違いです。もともとの意識がそこまで違うので、日本では巨大な所得を得るような人がいた場合に「暴利を貪る(むさぼる)」といったことになるわけです。 こうした意識の違いはかなり社会に影響していると思います。ボランティアにしてもアメリカにとっては社会を作るために必要な行為とされるのに対し、日本では、慈善的で崇高な行為とみられます。もっと敷居の低い捉え方をしないといけないのではないかと思います
一方、日本の社会は東洋哲学(神道・仏教・儒教)が人々の生活を律してきました。特に儒教ではこの世と人間との関係は徹底した楽観主義に立っています。つまり儒教の考え方によると、この世は様々な世界のあり方の中で最上のもの、そしてキリスト教と全く逆に、人間の本性は善であり、修養すれば仏にもなれます。儒教の目指す人間の理想像は君子という表現で示されます。君子は徳が高いといわれていますが、それは道に従うことであり、この道とは一定の理法に従う世界秩序のことです。つまり人倫の道に従うことがこの世で目指す理想となります。儒教ではそうした外面的な作法、世間体を出来るだけ守り、そのために自分を抑制します。財団への寄付金も会長さんが1,000円出すなら、皆も「右へ習え」で1,000円ずつ出します。日本には奉仕の動機にキリスト社会の「贖罪」といった意識はありません。
(2020.04.08)
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