ロータリアンの広場 |
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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「ロータリーがその適正な運命を理解するとしたら、ロータリーは必ず進歩しなければなりません。時には革命が起こす必要があります」 (シカゴ(1930年RI国際大会) ハリスのこの言葉はロータリー史上、具体的にいつのことを指しているのでしょうか。それはロータリーが誕生して間もなくのことでした。ハリス自身の言葉によるとそれを「復興(ルネッサンス)」と表現しています。 ではロータリーの「復興(ルネッサンス)」を振り返ってみましょう。ハリスによるとルネッサンスの足音はロータリーの誕生間もない、1906年の後半ごろから始まり、1907年になってその響きようやく高く、1913年まで騒擾は継続したとあります。初期のロータリーにとって最大の変化は、会員相互の友愛と親睦にあふれた相互扶助の考え方が新しい考えにとって変わられたことでありました。1906年といえばロータリーが誕生した翌年のことです。最初のロータリー・クラブに欠けているものを誰よりも最もよく認識していたのは創始者自身でした。 明敏なハリスは、早くも将来に目を向けていました。最初のクラブが成功裏に発足したからには、やがて第二、第三のクラブが続いて作られるだろうと確信していました。 会員が80名を超えた時点でハリスは、「互恵主義」の後押しをするよりも、クラブを新しい方向へ導くために手綱をひくことに重点を置きました。ハリスによる「復興(ルネッサンス)」の目的は、まず、第一にクラブの拡大を図り、第二に社会奉仕の理念を導入するということでした。 しかし大多数の人々がすでに相互利益と友愛に満足している現状をたちどころに改革することは至難の業でありました。そして、その復興は他の革命の場合と同様 に幻滅、覚醒、焦慮、希望、杞憂、自暴自棄、乱闘、傷心の時代を経過し殆ど革命であったとハリスの著書(This Rotarian Age)にあります。 「同一の土地において二度預言者となることは困難である」、先見の明のなかったことを告白せざるを得ない」、「わが希望を理解しえない友の冷淡な面影ほど世に寂しいものはないであろう」….復興の賛同者もほとんど無くハリスは孤独でした。 弁舌だけでは、ロータリー・ルネッサンスの目的を達成することはできませんでした。このような時、シカゴクラブは最初の公益事業に挑戦しました。それはシカゴ市内に公衆便所を創設することでした。これによりシカゴクラブはシカゴ市の文化事業団体として認められました。そしてシカゴの一地方的集団から国際的に拡大し、大きな奉仕団体に発展しました。 もし「ロータリー拡大すべし」という主張がなければ、シカゴロータリークラブはどうなっていたでしょうか。ハリスによる初期の困難に満ちた「復興運動」が、世界中のロータリアンに「奉仕の理想」の上に、共に行動するという輝かしい特権を与えてくれました。ロータリーの現在があるのはすべて、ハリスの「ロータリー復興」の決断にありました。 本来、ルネッサンスとは14世紀イタリアに端を発し全ヨーロッパに広まった、美術、建築、文学における古典様式の復興運動でした。ハリスは初期の改革を「ロータリー・ルネッサンス」と表現しました。やはりその言葉に多少の違和感があったのでしょう。次のような言葉を補填しています。 「ルネッサンスは革命と違う。然れども両者は共に文明の進歩に与って力あるものであった。中世期の終幕を画し欧州諸国民の道徳的並に智的水準は完全に変化をきたした。文芸復興又は復活と称せられるその時代に於ける変化は殆ど革命であった」と。最後にこの孤独なハリスの改革に協力を惜しまなかったチェスレイ・ペリーとシェルドンの二人も、「ロータリー・ルネッサンス≒革命」の立役者であったことを忘れてはなりません。 次回は、「ロータリー・NPO革命」について触れてみます。
(2020.08.17)
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