「Stigma 恥辱の烙印」
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東RC)

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2510地区 PDG 塚原房樹

《弱者救済》
 シカゴクラブの会報には「世界最初の奉仕クラブ」という言葉が誇らしげに謳われています。
 「どんな言葉でも長い間使われていると手垢にまみれふやけてしまうものです」ロータリーの「奉仕」という言葉はその代表格といえます。ロータリーの世界では右を向いても左を見ても奉仕、奉仕の掛け声ばかりで、何か大切なものが失われてしまったようです。「奉仕」はもともとキリスト教から来た言葉ですが、神への奉仕“serve”から「祈り」が失われたらどうなるでしょうか。
 同じようにロータリーの奉仕から「人の幸せを祈る心」が失われたらどうなるでしょうか。仏教の「布施行」も根底にあるものは「祈りの心」です。社寺のお賽銭箱に「喜捨(喜んで捨てる)」と書かれているのを見て、疑問に思われた方もいるでしょう。「捨」とは慈・悲・喜・捨の心で、執着しないということです。「捨」はお布施のことなのです。お布施というと、すぐに「あげること」と考えられますが、本当は「させていただく」という感謝の行為が「施」なのです。一般的にモノをさしあげれば、受けとった人は「ありがとう」といいます。しかし、布施の心からすれば、もらった人だけでなく、施した人も施させていただきまして有り難うございますと感謝するということなのです。
 「喜捨」することで人は罪深い執着心を捨てることができるのです。そのために喜んで供えさせてもらうので「喜捨」というのです。
 近年、ロータリーは大切な「人の幸せを祈る心」を失い、うわべだけの弱者救済に終始する寄付団体、慈善団体、ボランティア団体になってしまったよう思えます。弱者救済はロータリアンの務めですが、中でも金銭奉仕は一番やりやすい奉仕です。人は慈善や寄付をすることによって自分の精神状態は満たされます。ただしその絶対条件は自分より金銭的、精神的、肉体的に不幸な人が存在することです。われわれが幸せであることを確認するためには不均衡な社会が必要です。
 皆が満ち足りているなら奉仕の必要はありません。ロータリアンにはそんな人はいませんが、一般に「弱者救済」を唱える人々が本当に守りたいのは、「気の毒な人々のために善意を示している自分」という自己満足でしかないことが多いようです。そうしたイメージは、善意の衣を着ているが故に次第に傲慢の雰囲気を帯びることになります。しかし、そのような「弱者救済」の論理は、「弱者」が何時までも「弱者」であり続けることを前提にしています。
 「弱者救済」の論理が幅を利かせている限り、「弱者」は「強者」たることはできないのです。ロータリーの奉仕は本来このような「慈善/charity」「寄付/contribution」「施し/giving」とは異質のものです。ロータリーの奉仕とは、人の不幸を自分の問題としてとらえる純度の高い哲学的な物の考え方なのです。人の不幸に救いの手を差し伸べるとき、救われるのはむしろ手を差し伸べた自分の方だと考えます。なぜなら執着心や醜いエゴの心を捨てることができるからです。

《奉仕の難しさ》
 大事なことは貧しい人々に金銭奉仕をする場合、奉仕を受ける側の気持ちの中の《貧困のスティグマ》を十分忖度(そんたく)しなければなりません。  スティグマ/stigmaの語源はギリシ語で、肉体上の「徴(しるし)」を指す言葉です。奴隷、罪人を表す為に体に刻みつけられるか焼き付けられた「痕」でした。いかにして貧困者に生活の保証を、スティグマ(恥辱あるいは汚名)を着せることなく与えるかということは、英、米の社会政策にとって大きな課題なのです。
 スティグマの概念は尊厳の喪失、市民権の否定、きまり悪さなどと多様です。貧困という問題に限定して考えれば、それは他者とのかかわり合いの場合の依存性といえます。どのような依存の形であれ、依存状態に陥ることはだれも望みません。依存という概念の対語は自立であります。なぜスティグマを人は負うのでしょうか。
 人間は元来、経済的存在ではなく社会的存在です。人間の本来の目的は個人的利益を守ることでなく、むしろ社会的名誉、社会的地位を確保することにあるでしょう。古くから世界に広く見られる経済規則は「贈り物には何らかのお返しをするのが至極当然である」という互恵関係(交換)と自助の規範です。
 この互恵観念の規範からはずれると、やがて依存状態にある人の身分関係を低下させます。「貧困であることが恥ずかしいこと」ではなく、「貧困のために他者に依存することが恥ずかしいこと」であるという訳なのです。我々が経済的に独立できないために、自分および家族の生活を全面的に他者ないし公的秩序に依存せざるを得ない状況を思うとき、あるいは何らかの依存状態にある時に他者から一方的な贈与を受け取る時の「惨めさ」は容易に予測できます。
 ノーマルな社会とはギブ&テイクの社会です。互いに人間としての尊厳を持てる社会に施しはありません。私の年代は先の戦争直後の非日常の極限状態を経験しました。進駐軍(米兵)からガム、キャンデーを走行中のジープから投げ与えられました。また学校給食では脱脂乳のお世話になりました。脱脂乳を飲む子供たちの感謝の笑顔が報道されました。しかし子供たちの心はなぜか悲しい複雑な気持ちでした。
 途上国の小数民族の壁もない小学校、貧しい子供たちに絵本やノートを渡すと精一杯の笑みを浮かべてお礼を言います。しかし誇り高い彼らは与える側の善意の行為をどう受け止めるのでしょうか。依存状態に置かれた人がバランスを回復させるために、相手に与えることができるのは笑みを浮かべることと感謝の言葉だけです。ここに与えることの難しさがあります。与えられる側にも人間としての誇りがあります。我々は奉仕をする際、相手のスティグマに十分気を配らねばなりません。ガンジーは、「真の善行は、純潔な者だけがなし得る。善行をひとつしてやろう」などと考えてから善行するような作為の人間は、もうすでに不純だ」と言いました。スティグマを和らげるには施しをするのではなく、祈りの心を持って喜捨をさせて頂くのです。

《ロータリーのエゴ・他人の金で奉仕する団体》
 ロータリーは過去に幾千万の人々に人道的な救いの手を差し伸べてきました。これは偉大なことです。あくまでロータリーの奉仕は個人個人の善意によるもので、それぞれが分に応じて喜捨することによって成り立っていました。
 しかし市場経済が巨大になり、それが国際的な格差増幅にまでなってくると個人的な善意ではとても手が回らなくなってしまいます。そこでロータリーも他人の金を集めて善行をするという虚構、つまり「他人の金で奉仕する」団体となってしまいました。
 今、もう一度「ロータリーの奉仕」の原点を考えてみましょう。
                    

(2013.11.20)

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