ロータリアンの広場 |
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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「前回、ロータリーが非営利組織になった外的要因の一つとして、市場経済と小さな政府をあげました。しかしもう一つ大きな内的要因があります。それは、ロータリーの拡大によりロータリーの勢力地図が大きく変ったことです。急激に拡大の進んでいる国々の民族は 極めて多様で、社会構造も宗教も価値観も、従来のキリスト教社会とは著しく異なる上に、その民族間の利害も錯綜して容易に一つにまとめることなど出来ません。ロータリーはもはやRIの手に負えなくなりました。成熟社会 と未成熟社会を全く同一に律しようとする所に、そもそも無理があります。 また今後ますます進む価値観の分裂、多様化に対処する現実的解決策として、官僚的管理機構が強化されました。その結果、ロータリーは官僚による財団中心のNPOとなりました。
本来、ロータリークラブは情緒的結社でした。RIも、それが個々のロータリークラブの集合体である限り、何よりも情緒を大切にしなければなりません。しかし、アメリカ流プラグマテイズムとでもいうのでしょうか。非営利組織となったロータリーは「情緒」に変えて「論理」という武器でクラブをマネージメントするようになりました。もともと、異民族の入り交った多民族国家のアメリカでは、人々の価値観の相違から来る必然的帰結として、論理で相手を説得しようとします。
では情緒とは何を意味するのでしょうか。お茶の水大学教授の藤原正彦氏によると『情緒という言葉は、意味が広くやや漠然としている。喜怒哀楽などの一時的情緒だけでなく友情、勇気、愛国心、正義感など、さらにはより広い高次なものまで含んでいる』としたうえで藤原氏は特に重要な情緒として、「他人の不幸に対する敏感さ」と「なつかしさ」をあげています。これらこそ、ロータリーの求める「奉仕理念」ではないでしょうか。ところが、ロータリーは拡大とともに情緒性を失い、今度は内部の組織の改革が、会員個人、個人の情緒を押しつぶしてしまいました。 そしてロータリーの価値を計る尺度は、それまでの内なる「情緒性」を封印して、ロータリー財団への寄付という現実的な眼に見えるものとなりました。管理社会化、個人疎外は世界の大勢ですが、ロータリーまでその波に飲み込まれるというのは悲しむべきことです。いつも云うように、クラブというものの存在価値は、むしろそういう管理社会の中の自由なオアシスたるところにあるはずです。 ロータリーの会合で、シニアリーダーの方々が、戦略計画について立て板に水のごとく、体系立てて、堂々と論陣を張られたりしたら、多くのロータリアンはもう神様みたいに、遠く畏敬の念を持って見守るでしょう。しかし、何かが違うぞという思いを持つ人もいるでしょう。リーダーは論理的に正しいことを説明しているということは分かっていても、何かしっくりしないのはどうしてでしょうか。それは戦略計画の論理に「情緒性」が欠落しているから、ロータリアンは共感できないのではないのでしょうか。
(2020.08.28)
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