「寄 付 と 喜 捨」
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東RC)

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2510地区 PDG 塚原房樹

《神との緊張感》
 ロータリーの奉仕には額に汗する奉仕と、お金を出さなければ出来ない奉仕があります。ロータリー財団や米山奨学会がそれです。我々の捧げた一灯が人類平和のため、国際レベルの人道的、教育的プログラムを通じて、世界の隅々を照らす万灯の灯りとなることを祈ります。我々は単なるお付き合いの「寄付」ではなく善意の心を持って「喜捨」をしたいものです。
 しかし時々「財団」や「米山」に寄付を取られたという表現を耳にします。
 そこで「寄付」と「喜捨」について考えてみました。アメリカでは「困窮者に対する寄付、慈善寄付」など日常の習慣として自然体で行っていますが、日本では寄付と聞くと、つい構えてしまいます。宗教観の違いでしょうか。  ロケット博士として有名だった糸川英夫さんは、かつて「日本の科学には神との緊張感が無い。なぜならニュートンの力学やアインシュタインの相対性理論を取り入れた時、背後にある神は置き去りにしてしまった。政治も経済も同じで、日本では失敗しても神への倫理的責任はあまり問われない」と云われました。
 ロータリーも同じです。ロータリーは本来中世キリスト教神学の復興運動でありますが、日本にやって来た時には背後にある神は置き去りにされました。  ロータリーはピューリタンの戒律を一般生活の中で道徳として実践しようとする運動でありました。  特にアメリカは日常生活の中に神が遍在しています。ちなみにアメリカの全てのドル紙幣の裏には「In God We Trust(神に我々は信を置く)」というフレーズが印刷されています。社会の関係性が成立することを保証する主体が神であります。またアメリカ国歌、政治家のスピーチの中にも神に言及する表現が多くあります。ロータリークラブの例会を教会の日曜ごとの礼拝になぞらえることは飛躍しすぎることかもしれません。
 しかしロータリーの哲学とその組織を考えると、両者が果たしている役割には、共通したものがまったく無いとは言い切れません。哲学と宗教は紙一重です。アメリカのロータリアンの中には日曜ごとの礼拝に欠かさず出ている人はたくさんいるでしょう。
 彼らは教会の他にロータリークラブの例会にも出ています。ところが幸か不幸か我々の多数はほとんど日常、宗教に関心を持っておりません。その結果、現代の社会は、「物と心」の乖離により嘆かわしい倒錯の世相になりました。
 戦後、連合国軍総司令部は教育基本法を作り、歴史や文化、伝統、宗教を否定し続けてきたのが原因です。特に宗教観の欠如により、自分の思想で自分を律することをやめた日本人は哲学を失い、ふわふわ波間を漂う根無し草となってしまいました。
 ロータリーでは政治と宗教の話はしません。またポール・ハリスはことさらロータリーと宗教を切り離そうと気を使っておりますが、それは宗教戦争まで起こした一神教世界の歴史が念頭にあるからです。またロータリーを世界へ拡大するために国際ロータリーもキリスト教の匂いを消そうと努めました。
 我々東洋の多神教思想で育ったものからすれば、ロータリーも一種の宗教であっても構わないのです。儒教は厳密な意味で宗教といえないかもしれませんが、それでもやはり宗教的な何かを持っています。人間の倫理を構築する基本になるのは結局宗教でしかありません。ポール・ハリスは「ロータリーは宗教でもなければその代用物でもない。古くからある道徳観を」などといっていますが、ポールの道徳観の根底にあるものはやはりキリスト教ではありませんか。
 そう考えてくると我々職業人の信奉する宗教として、ロータリーの唱える「職業奉仕」の精神を挙げたいのです。

《シドニーRCの募金箱》
 以前、仕事でオーストラリアに良く参りました。シドニー空港の2階フロアーにプラスチック製の募金箱があります。シドニーRCの名前が大きく書かれています。ロータリーのよしみでいつも帰国の際、余ったオーストラリアのコインや小額紙幣を入れていました。ある時一人の小柄な夫人がつかつかと募金箱に近寄って何がしかのお金を入れました。
 私は思わずその夫人にあなたはロータリアンですかと聞きました。いいえといって夫人は去って行きました。しばらくすると中年の男性が幾ばくかのお金を入れました。私はまた、あなたはロータリアンですかと聞きました。ノーという返事でした。時折、通りがかりの人が浄財を入れていました。キリスト教の国では寄付とか慈善という行為は宗教的習慣として広く浸透しているのだなと感じました。町の交差点でも、足の不自由なお年寄りが渡ろうとすると何人かの人がバラバラと近寄り手を貸そうとします。神様は健常者の心を試すために障害者を作られた、だから健常者は障害者に進んで手を差し伸べる、それが神の御心に適うことなのです。
 ロータリー財団への寄付も自分を中心にして人様に尽くすことが「良いこと=善」だと考えていると今ひとつ判りません。国際奉仕は相手の顔がまったく見えない。誰に奉仕しているのか知らずしてそもそも奉仕ということが成り立つのが不思議です。姿の見えない人に奉仕するとは一体どういうことでしょうか。言い換えれば私たちはまだ見たことも無い、話したことも無い、知らない誰かを、本気で愛することが出来るのか。奉仕という言葉がなじめません。
 もともと奉仕とは神に仕えるという意味です。日本では人が人に仕える時は奉仕とは言いません。「奉仕の理想」と云っても日本人にぴんときません。奉仕という言葉を日本人に判りやすい表現に置き換えると「ご恩返し」になるでしょう。「ご恩返し」は二通りあります。
 受けた恩を直接相手に返すギブアンドテイク型のものと眼に見えぬものへの恩返しがあります。もともと私たちの受けている恩というものが、必ずしも見える相手からの恩ばかりでなくむしろ見えない誰かから受ける恩のほうがずっと多いということに思いをいたすなら見えぬ人たちへ恩を返すのは当然であります。宗教的にいえば、私たちがここに生きていることだけで、宇宙からの無限の恩を受けているわけで、私たちの無数の先祖の血が今この命を支えて生かしてくれているわけです。私たちが見えぬかなたの人に向かって恩返しをするのは当然であります。

《僧・叡尊》
 日本には昔から仏教や儒教という東洋哲学の教えがあります。それらもロータリー財団への理解を深め、財団への「喜捨」をいっそう強固に裏打ちしてくれるでしょう。鎌倉時代の叡尊という律宗のお坊さんは「らい」(ハンセン)病の人たちを収容する建物を作ったり、貧窮者に手を差し伸べたり慈善事業を行いました。私は叡尊のものの考え方を聞いてびっくりしました。
 それはどういうことかと申しますと、「らい」を病んでいる人とか、あるいは飢えに苦しんでいる人とか、家の無い子供たちというのは、実は文殊菩薩がこの世に、仮に姿を現されたものである。生きとし生けるものをこの世に作り出し、生かしている造物主といってよろしいし、神様といってもよろしいし、仏様といってもよろしいが、そういう大きな存在が、そこに仮に姿を現したものである。そういう風に叡尊は解釈しましてらい病を患っている人に施しをするというのは、施しをするのではない。文殊菩薩に礼拝をし、供養するのであるとこういう風にとったのであります。
 我々もその「らい病」患者も含め、一切を作っている大きな存在に対して、供養をし、礼拝するという気持ちでいささかなりとも自分に属している財物を捧げる。こういう風に考えますと、こんなことは政府のやることだなんて理屈を考えないで、恵まれない人たちに何かを恵んでやるというような、そういう捉え方ではなく、ごく素直に奉仕が出来るのではないかという風に自分を戒めることが出来たわけであります。大いなるものに生かされていることを自覚し、自分に属するいささかの財物を「喜捨」することにより、執着心が取り除かれる、実は自分自身が救われるのです。普通は中々「財施」のチャンスは無いものです。ロータリー財団のおかげで「喜捨・財施」が出来るという風に考えてはいかがでしょうか。

参考・文献「私のロータリー」森 三郎
                     (2013.11.25)

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