ロータリアンの広場 |
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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私の手元に数個の大理石の小片があります。石灰岩が結晶化してできる大理石は独特の模様、光沢がある美しい石です。風化されてはいるが、断面がローズ色をしたもの、灰色の中に水晶のような小さな光が見えるもの、薄いベージュ色をしたものがあります。 この石たちは、ポール・ハリスが幼年期、少年期を過ごしたバーモント州、ウォーリングフォードの曽祖父ハワード・ハリス家の軒下に敷かれていた、「雨落ち石」の大理石の砕石です。ポールは祖父母が寝静まると毎夜、自分の部屋の窓から軒下の砕石を飛び超えて近くの駅に行き、機関車の最先端に乗って近くのマンチェスター駅まで命がけの往復に出かけました。私は記念にポールの部屋の下の数個の大理石を現在の住人に所望したところ、バーモントは大理石の産地だから、「いくらでもどうぞ」といわれました。手元の石はその時のものです。 当時私は、RIの「ロータリー親睦活動グループ」の「ロータリー歴史と伝統の会」のメンバーでした。私の任務は、ラシーンにあるP・ハリスの生家跡、ポールが幼・少年期を過ごしたウォーリングフォードの祖父母の家、シカゴのハリス邸(カムリーバンク)、始祖の眠るシカゴ郊外のマウントホープ墓地の4か所を実際に訪ねて、P・ハリスの足跡を特定・検証することでした。 中でもウォーリングフォードは私の一番訪れたかったところでした。 ポールの自伝『わがロータリーへの道』を読んだ時から、ウォーリングフォードは私の憧憬の地となりました。そのポールの自伝の序文を紹介します。 「私の70余年の人生で、大切なものが二つあります。一つは古郷ニューイングランドの谷間、もう一つはロータリー運動です。私がロータリーに身を捧げるようになった源を探っていくと、古郷の谷間、村人の人情、宗教や政治に対する雅量にまでさかのぼっていきます。見方によればロータリーは古郷の谷間で産声を上げたのです」 私があこがれの地、ロータリーの古郷ウォーリングフォードを訪れることができたのは、「ポール・ハリス没後50周年」の式典がシカゴ郊外のブルーアイランドのマウントホープ墓地で行われ、その式典に出席した後の1996年の6月のことでした。 私は、ポールのロータリーの古郷、「谷間の村」という言葉を文字通りに受け止め、ウォーリングフォード村は山に囲まれた狭い盆地のような地形を勝手に想像していました。しかし、ウォーリングフォードに行ってみると、決して谷間の村ではありませんでした。バーモント州に存在するすべての山脈は、みなグリーン山脈といわれています。 ウォーリングフォード村は、二つのグリーン山脈の間にあるとはいえ、その広さは数十キロもあり、とても日本の感覚で言う谷間とは程遠い広さでした。 先ほど、ハリス家の軒下の大理石に触れましたが、実は、ポールがシカゴで弁護士を開業できたのも、ロータリークラブが生まれたのも、その背景には、アメリカの大理石産業が深くかかわっていました。 ウォーリングフォード村の近くにラトランド市があります。ラトランド市は別名「Marble City」(大理石の都市)」と呼ばれ、大理石の採石、加工場がありました。ラトランドの大理石産業は、19世紀から世界有数の産地として街を発展させてきました。ハリスが過ごしたバーモント州は大理石の一大産地でした。 では、ポールと大理石のかかわりを振り返ってみましょう。ポールの自伝「ロータリーの創設者ポール・ハリス」によると、1888年、そもそもハリスが初めて就職したのは、ラトランド市の「シェルドン大理石会社」で、仕事見習の給仕(雑用係)として一日一ドルで一年間働きました。 1891年アイオア州立大学法学部卒業。実際に法律の仕事を始める前に、各地を旅行しながら見聞を広めようと思い立ち、五年間の放浪生活を始めました。その間、地方紙の記者。果樹園労働者。実業学校の教師。劇団の俳優。牧場労働者等々をしながらアメリカ各地を遍歴しました。 1892年、フロリダのジャクソンビルでホテルの夜勤事務員となった時、たまたまジョージ・クラークと知り合いになり、彼の経営する「ジャクソンビル大理石会社」のセールスマンとなりました。二人はたちまち親友となりました。 クラークはポールの生涯に著しい影響を与えた人でした。ポールはクラークの特別の計らいでフロリダ州をくまなく見聞することができました。 1893年、ポールは世話になったクラークの会社を辞して、首都ワシントンに行き、ワシントン・スター紙で働き、新聞記者を目指しましたが不成功。そこでフロリダのクラークの大理石会社とは別の「ジェームス商会」という大理石会社に入り、南部の諸州を学ぶ機会を得ましたが、まもなく、そこを辞して貨物船で家畜と共に英国へ渡りました。しかし、リバプールに寄っただけでロンドンを見ることもなく帰国することになり痛く失望しました。その後、再び英国行きの船で働くことができて、やっとロンドンはじめ数々の史跡を訪ね、ウエールズを見ることもできました。 さすがに夢多き旅人にも倦怠の色が見えてきました。ポールはフロリダのジャクソンビルに帰り、再びクラークの大理石会社に入る決心をしました。まだヨーロッパを知らなかったポールは、クラークの友情のおかげでスコットランド、アイルランド、ベルギー、イタリアの大理石の採石場をはじめ、ヨーロッパの主な都市を一年かけて全部回らせてもらいました。ポールはかねてよりシカゴで法律事務所を開きたいと考えていました。クラークはポールに、「君がシカゴに行ってどれほどの利益があるか知らないが、僕のところにいれば、シカゴへ行く以上にお金ができると僕は思うのだが」といいました。ポールは「君の言う通りだということは僕もよく知っている。 しかし僕は金もうけのためにシカゴに行くのではないのだ。本当の人生を生きるために行くのだから」と答えました。その言葉を聞いてクラークは、君の意思は分かった。では最後に行きたいところはもうないのかと尋ねました。ポールはシカゴへ行く前に、もう一か所ニューヨークに行きたいと思っていました。早速クラークは、わざわざニューヨークの支配人を呼び戻し、ポールを一次的にニューヨークの支配人に就けるという熱い友情を、またしても見せてくれました。後にポールはロータリークラブを作った時、クラークの友情に対しせめてもの恩返しに、彼をジャクソンビル・ロータリークラブの会長に推薦しました。 ポールは1896年、シカゴに移り、法律事務所を開きました。ロータリーは1905年2月23日の夜、シカゴで初会合が開かれました。ポールは大理石のおかげで多くの有力な友人を得て、広く世界を知ることができました。その経験は、弁護士業務にも、ロータリーの拡大にも大いに貢献しました。 手元にある数個の大理石は、今は何も語りませんが・・・・
(2021.07.12)
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