ロータリアンの広場


「ウォーリングフォードの銀河」
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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2510地区 塚原房樹PDG

 前回、「ポールハリスと大理石」でも触れましたが、1996年、始祖の足跡を訪ねてウォーリングフォード村のハリス家に参りました。過去、「ロータリーの古郷」を訪ねて多くのロータリアンがウォーリングフォードを訪れましたが、ポールが幼少期を過ごし、数々の思い出にあふれた旧ハリス家だけは、現在の住人に遠慮して家の中を見たロータリアンは一人もおりませんでした。しかし幸運にも、ある小さな機縁で快くポールの過ごした家の中を案内してくれた当時の住人のJ・マーカスご夫妻に今も深く感謝をしています。
(詳細は私の「ポールP・ハリスの足跡を訪ねて」という小冊子に掲載)

 ウォーリングフォードでの宿は、ポールの祖父ハワード・ハリス家の真向かいにある「ビクトリアイン」という名のカントリーインでした。客室は五部屋で清潔なベッドと、ひなにはまれな美味しい食事を提供してくれる心温まるインでした。訪問当夜、ウォーリングフォードRCの会長さんたちとインでロータリー談議、始祖の数々のエピソードを知ることができました。 その夜、自分は長年あこがれていた「ロータリーの古郷」谷間の村に、今、実際にいるのだという高揚感のせいで、深夜二時ごろ目が覚めてしまいました。二階の窓から外を見ると、ウォーリングフォード村の夜空は真っ暗で、そこには地上の闇ごと私を抱きとるように銀河が流れていました。ああ、あれが私の地球の属している銀河宇宙の景観なのだと、頭上に広がる空の大きさに圧倒され、深い感動をおぼえました。宇宙感覚というべきものに、身を震わすことができるのはそういう旅の中の予期せぬ一瞬のことです。

 私たち自身が宇宙の一部なのです。今、私のいるここも宇宙なのです。宇宙の本体と一つになるとき、人は宗教や道徳に畏怖をもって向かい合います。現代人は宇宙へロケットで行けるようになり、ここが宇宙だということを忘れてしまいました。我々はやっぱり人類なのです。そして宇宙です。現代の言葉に置き換えると、やっぱり無限ということになるだろうと思います。 イエスが神に触れたのも、釈迦が彼の「悟り」に達したのも、空海が彼の「大日如来」の示現に立ち会ったのも、皆そういう瞬間の出来事ではなかったかと思います。それになんという名をつけようと自分を抱く大いなるものを感じた時、人はモラル(道徳)と呼ばれているものの始原に立つのだと思います。ウォーリングフォードの荘厳な銀河を目にした時、本当に、周りにある一木一草にも、同じ生命の流れの中の同じ地点に自分は立っているのだという、自然との親密な友情と連帯を感ずることができました。敬虔なピューリタンの祖父母に育てられたポールも、きっと四季折々この壮大な宇宙のドラマを見たことでしょう。

 ポルトガルのロカ岬は、ユーラシア大陸最西端の岬です。そこには、ポルトガルの詩人の「ここに地終わり、海始まる」という言葉を刻んだ石碑が立っています。その荒れる海に突き出た岩の上に立った時にも、そのような感覚に襲われました。それは「大いなるもの」を実感する瞬間です。それは、モラル(道徳)であり自己を超えた超越的な何者かが自己に強いる命令の声だといってもいいでしょう。 モラル(道徳)が超越的な価値や判断基準を上から押し付けてくるものだとすれば、それに対して私たちが自分自身で取捨選択できる規則をエシックス(倫理)といいます。つまり倫理というのは自分がいる「場所」に根差して、生き方を考えていくことだといえます。

 なお、モラル=道徳 とエシックス=倫理という字句は通常混同して同義に使われています。ロータリーの文献がみなそうですから、私も深く考えずに使っています。では、このモラルとエシックスを職業奉仕に当てはめるとどうなるでしょう。 企業経営に求められるのは、法律を遵守しながら可能な限り最小の費用と時間と労力で投下資本の増殖を図り、きちんと税金を納めて株主に配当することが「職業道徳」にほかなりません。 一方福祉社会を実現するためには、弱者に対する配慮が必要で、ロータリアンに根差した生き方、つまりロータリアンのエシックス(倫理)が救済処置として問われるで しょう。倫理学とはごく簡単に言えば、どのように生きるかを考える学問のことです。

1915年の「道徳律」(Code of Ethics)はやはり「倫理訓」とすべきでした。

(2021.07.24)

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