ロータリアンの広場


『トポス無き大衆のロータリー』
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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2510地区 塚原房樹PDG

 元RI会長のパーシーホジソンが1960年に著した「奉仕こそわがつとめ」という著書があります。その中に「現代のギルド」という項目があり、下記のようなことが述べられています。「ロータリークラブが作られるとき先ず、第一に考えなければならないことは、地域社会におけるすべての有益かつ認められた職業の優れた代表会員を同業組合の中から選び獲得することであります。同様の考えは新会員の選択にも向けられます。彼らはその職業に成功していなければなりません。彼らの人格は疑いをはさむ余地のないものでなければなりません」 まことにロータリーは優秀な職業人の集合体であるといっても不当ではありますまい。中略、また会員はその業界にロータリーから送られた大使とみなされており、自分の同業組合にロータリーの理想を伝えることが期待されています」

 ロータリーは本来、エリートの組織なのです。このような厳しい選考を経たものが、どうして「選り抜きの人」でないのか。そもそもエリート意識を持つな、などというのが間違いなのです。その代わり当然のことながら、エリートには常人を超えた厳しい倫理「ノーブレス・オブリージュ」(高貴の義務)が強いられました。
 ロータリアンは選び抜かれたエリートだからこそ、「超我の奉仕」"Service Above Self”を厳しく要求されるのです。しかしRIは増強拡大を急ぐあまり、かつての会員入会資格であった厳しい選考基準を弊履のごとく捨て去り、狭き門だったロータリーは今や、人頭分担金さえ払ってくれるなら資格を問わないという多様性が選考基準となりました。なりふり構わぬ増強のためには、少数のエリートより多数の人々が必要です。RI理事会はダイバーシティ (DEI)を採択してロータリーの厳しい入会資格を大幅に緩和して、万人に門戸を開放しました。
 その結果として職業奉仕は雲散霧消してしまい、ロータリーは非営利組織の慈善団体となり官僚支配の弊害が現れるようになりました。RI理事会は、一騎当千のロータリアンによる”I serve”を標榜する組織から、”We serve”を標榜する「金銭奉仕」の道を選択しました。ロータリーの大衆化です。大衆を批判するのはますます強固なタブーとなりつつありますが、RI理事会の多様性の採択は、まさにエリート対「21世紀現代の大衆」の問題です。

 もともと大衆が現れたのは19世紀、ヨーロッパにおいて起こった産業革命によって、農村社会から工業化が進む都市へ大量の労働者として多くの人々が流入しました。  そうして都市に出てきた人たちは、自分が自分であることを担保してくれる場所、つまり「トポス」(ギリシャ語で「場所」の意)を棄ててきています。農村ではローカル共同体の構成員として意味づけられた存在だった彼らが、都市の労働者となり、代替可能な記号のような存在として扱われるようになっていったのでした。
 しかも根無し草となってしまった人たちであるということがポイントです。自分が意味ある存在として位置づけられるよりどころを失った、つまりトポス無き人間のことです。
 自分がよって立つ場所がなく、誰が誰なのか区別のつかないような、個性を失って群衆化した人たち、それを大衆(mass man)と呼びました。

 では、21世紀現代の大衆とは、どのような人たちでしょうか。極めて「多忙な時代」を生きる人々です。かつては社会の中でセーフティ・ネットが機能して、弱者や貧困者に対しては社会保障が安心感を与え、企業戦士は会社という所属先がなくならないことを自明の前提としていました。つまり、トポス無き人々に柔らかな「社会的包摂性」を、国家・社会が細く補足する制度的な網が存在していました。
 それが1990年以降社会の中でどんどん縮小・崩壊し、殺伐とした個人間の競争社会になっているのが現代社会です。社会的紐帯はバラバラに解体され個人が砂粒のようになっています。会社のイメージは終身雇用から非正規雇用へと反転しました。 砂粒同士がグローバルな市場競争に丸裸のまま放り出され、しのぎを削る競争社会こそ「多忙な時代」を何より象徴しています。
 もう一つがインターネットやSNSの普及拡大による多忙です。SNSの普及は民主主義の表情を変えてしまいました。何時でも瞬時に有権者の反応がわかってしまうため、民意は情緒的な情報に一喜一憂し、左右されやすくなっています。情報に絶えず影響を受ける時代、何かに反応し続けることを余儀なくされた時代は、まさしく「多忙な時代」そのものでしょう。イワシの群れは一匹だけが逆流することが許されない。 これが21世紀の大衆像です。

 以上から分かるのは、高速度化する現代社会は、安定した人と人とのつながりが非常に作りにくいということです。前回、『孤独なボウリング場』でも触れましたが、ソーシャル・キャピタル(中間領域)の喪失です。いま私たちのなすべきことは何でしょうか。自分の正義感を信じ込んで、いたずらに善意の斧を振り上げることではないでしょう。こういう時こそ、「私たちはどのような人間関係を作るべきか」といった問いに戻る必要があります。今直面しているロータリーの「会員の多様性」に対しても、また「SRF」についても、もっと原理的・本質的な「社会的包摂性」を踏まえた問いを立てる「勇気」が必要なのです。

(2021.11.19)

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