ロータリアンの広場


「長い老後」と死生観
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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2510地区 塚原房樹PDG

 私たちは今、長寿の時代に住んでいます。多くの人にとって「長い老後」を過ごすことが、ごく当たり前の時代となりました。死生観とは、生きることと死ぬことの価値観や自分の考え方を示す言葉であり、人生の最期が近くなった際に意識するものです。
 現代の日本人の死生観を大きく変えたのは「老後」の存在でしょう。生と死の間に「老後」ができたことで、死ぬ意味があいまいになってきたからです。

「老後」という言葉が登場したのは1984年。戦後、第1次産業から第3次産業へと産業がシフトして都市化とサラリーマン化が進むなかで、「定年」という制度が生まれました。それまでは、基本的に死ぬまで働いていたわけですから、「生」と「死」の二分法でした。

 ところが、戦後のサラリーマン世代が最初に定年を迎える80年代中盤以降に「老後」が誕生したことで、人生が3段階になりました。老後に「死ぬまでの心配」をしなければならなくなったことは、大きな変化です。元気なうちに死への準備をする「終活」も、「老後」がなければ生まれなかったでしょう。 日本人の死生観は、「西方浄土」「極楽」という仏教的観念と家制度が結びついて醸成されてきました。「死んだら極楽浄土に行ける」「ご先祖様になって家や子孫を守る」と考えることで、「死」は意味を持ちました。残された者も、死んでいった「ご先祖様」を供養するためにお墓を作り、お参りに行き、自分が年老いてきたら「ご先祖様」として死んでいくという目的を持つことができました。

 だが、平均寿命が80歳以上に延びるにつれて、核家族化や病院死の増加によって、死はどんどん遠いところへと追いやられていきました。「極楽浄土」や「ご先祖様」という意味は見いだせなくなり、生きることが最大の価値になりました。これが今の日本人の死生観なのです。人生に「老後」という段階ができたことにより、念仏をとなえて極楽浄土を期待するには、死が遠くなりすぎ、極楽浄土の意味がなくなってしまったのです。

 宗教もかつてのように、与えられそれを生きざるをえないものというよりも、個人が選んで信仰するものへと重点を移してきました。こうして「自然と宗教」という死生観の準拠枠が古くなる一方で、浮上してきたのが 「生物学」であり、その実践的応用分野としての「医療」、そして医療の組織化された空間としての「病院」と考えられます。 例えば「終活」という、自分の終末に関する活動があります。私たちは若いときから「就活」して、「婚活」して、ついには「終就」して死んでいく。終活することはある意味、現代社会からの要請のようなものです。特に、終末医療の問題や契約関係の問題が大きい。例えば。人工呼吸器や延命治療は、自分の意思を表明しておかなければならなくなっています。また残された人が困らないように意思表明する「エンディングノート」などを作成することになります。

 「終活」が、現代社会を生きる人間にとって必要なことであることは理解できますが、それで「救われる」とは思いません。では救いに直結するものは何かといえば、大きな意味での「物語」だと思います。私の人生も一つの物語であり、宗教の体系もある意味では物語です。物語というのは一度出会ってしまうと、出会わなかった以前にはもう戻れないという性格を持っています。宗教の物語も同じです。情報であれば自分で操作すれば済みます。しかし物語は、自分のありよう自体が問われることになります。生き方を変えざるを得なくなる。

 死が遠くなりすぎた老人にも、どこかで身も心もお任せできるような救いの物語を求めているのではないでしょうか。そして、ある物語に出会って、「ああ、これは私のために用意された物語だ」「もう他の物語とは代替えできない」となった時、私たちは救われるのではないでしょうか。

 人間は、いざ死ぬときはたった一人で死ぬものです。しかしこの「ただ一人」のうちには、実際には「ただ二人」という意識があります。この二人の中の「もう一人」は、自分の信じ愛したものです。キリスト教における父なる神、親鸞における如来のようなものでしょう。信と愛の存するところ、対象は何であっても「ただ一人」は「ただ二人」なのです。「同行二人」(どうぎょうににん)とは,弘法大師と二人連れという意味と自分を支えてくれる誰かの存在という意味を持ち、どちらの意味であっても遍路者が苦難を乗り越える際に支えになっている。それが死を自覚した時の人間の強さというものではないでしょうか。

 「歎異抄」に記された、釈尊、善導、法然、そして親鸞へと連綿と続く物語が、「よくぞ途切れることなく、現代の私にまでつながってくださった」。往相回向、還相回向、これは私のための物語だ。自分のための訓え、自分のために準備された物語に出会えた喜び、そして「救い」。「歎異抄」は煩悩だらけの私の最後に用意された物語です。

しかし死の間際に頼むこの願いは、アイデンティティを喪失する前の、あくまで物事の是非の判断ができる理性があるうちでしょう。私も米寿を迎えます。「長い老後」を経てやがて、痴呆症になると「歎異抄」の「物語」は、遠い無縁の存在となるでしょうが、せめて、「生かしめられている」という一片の誠意は失いたくないものです。

(2022.10.03)

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