ロータリアンの広場


歎異抄に学ぶ、ロータリーの奉仕
2510地区 PDG 塚原房樹(札幌東)
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2510地区 塚原房樹PDG

 親鸞聖人の訓えを700年前に書き残した唯円の「歎異抄」は、後世の私たちに人生の根源的な問いに対し、貴方も幸せになれるという答えを示してくれました。近代になり日本の知識人たちは,キリスト教文化圏からの哲学・思想に触れました。そこには、人は生まれながらに罪を背負っているという、「原罪」の感覚が深く浸透しています。日本の思想や宗教には、あまりそうした性質のものはありませんが、親鸞だけは別でした。明治以降の思想家や哲学者たちは「善人なおもつて往生をとぐ。 いはんや悪人をや」と説く「歎異抄」に、原罪思想とも四つに組める罪業観が備わっていることを見出したのです。 浄土仏教は、弱者のための仏道、愚者のための仏道であります。だから、「阿弥陀仏、ただ一仏」といった一神教的な傾向が強くなるのでしょう。

 歎異抄によると、法然以前の阿弥陀仏信仰は、「臨終の際、お迎えに来てくれる仏」という性格の強いものでした。おそらく阿弥陀仏信仰がこれほど日本で浸透していったのも、お迎えの仏であったことが大きかったと思われます。阿弥陀仏を信仰すれば、一人で死ぬことはない。間違いなく行く先まで連れて行ってくれる。これは大きなポイントだったに違いありません。 そのような素朴な民間信仰的なものが融合していた浄土教を、法然は一つの仏道として成立させたのです。そしてさらに親鸞は、浄土へ往く(往相回向)のみならず、浄土から還ってくる(還相回向)を説いています。親鸞の仏道は、浄土へ往生するだけでは完結しません。またこの世界へ還ってきて、生きとし生ける存在を救うというのです。私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土から浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。 人が穢土から離れて浄土に往生するということは、「自利」(自ら利すること)の成就です。しかし「自利」の成就を果たすだけでは仏教とはいえないのです。「利他」(他を利すること)がなければならないからです。他の人びとが浄土に往生できるよう、穢土の人びとへのはたらきかけがなければならないのです。つまり、自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになること、それが仏教の根本の精神なのです。

 ロータリーにあっては、理想の追求の場は例会であります。「入りて学び、出でて奉仕せよ」という警句は、「歎異抄」に見る親鸞の「往相回向」「還相回向」の教えそのものであります。そして例会で得られた境地は、ただちに実践されなければならないのです。職業人であるロータリアンには、深山幽谷にこもり爆布下に座して、清浄心を究めるところの仏道上の<:往相回向>は、日常の喧燥の真っただ中の職場という穢土・泥沼でなければなりません。それは奇しくも、悟りの境地に達した聖者が衆生済度を行なうべき <還相回向>の対象たる人生の泥沼と一致します。 すなわち、ロータリアンが例会において求める理想は人生の泥沼を基盤にして生まれ、かつロータリアンが例会を去って実践すべき理想の適用の場もまた人生の泥沼なのです。ロータリアンは常時職場という泥沼に身をおき、そこを中心に<往相>とく還相>を同時に繰り替えしつつ、自己の職場に蓮の花を咲かせようとする人たちのことなのだと言ってさしつかえがありません。 ロータリアンの実践する理想を自己の職場のみにとどまるものとすれば、ロータリー 運動はエゴイズムの表現として非難を受けるでしょう。前にも何度も述べられたように、ロータリアンは自己の成功のみをもって、事なれりとすることはできません。なぜなら自己の成功の傍に、一人の不幸な職業人がいることを自己の責任において把えられねばならないからです(小堀憲助・ロータリー思想の理論構造)

 仏教は智慧と慈悲の獲得・実践を目指す宗教です。世界中にいかに多くの宗派があろうとも、すべての仏教は智慧と慈悲の完成を目指しています。その慈悲に、聖道と浄土の慈悲があるというのです。「歎異抄」では、聖道の慈悲とは、現代の言葉でいう人間愛やヒューマニズムであり、「すべてのものを憐れみ、いとおしみ、育むこと」を意味します。 しかし「」それは不完全なものではないのか」と親鸞は問うのです。何故ならいずれも自分の都合によってゆがんだ愛情だからです。それでは真に他者を救うことはできない。だから浄土へ往生して、仏となって、人々を救うことを目指す。それが浄土門の慈悲だとしています。

 ロータリーで善い行いとされる「奉仕」を否定しているのではありません。しかし、仏道という点から言えば「それは不完全なものと認識せよ」といっているのです。「自分の都合の入った善であるという意識なしに、つい善いことをしている気分になって満足するな」というのです。 自分が正しいと思った瞬間に見えなくなるものがあります。自分はいいことをしている。そして次第に偏っていくのが私たちなのです。奉仕活動をしても、いつの間にか偏ってしまう。自分の得意分野の中だけで、自分の都合を振り回してしまう。そのことを常に自分に言い聞かせてすべてのものを憐れみ、いとおしみ、「往相回向」、「還相回向」の道を目指さなければなりません。 このように考えると、ロータリーの奉仕とは他者への奉仕というよりは自己の境地を高める「自己研鑽」への奉仕であります。

(2022.10.07)

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