『夜道の街灯』
![]() 2510地区 PDG 塚原房樹 |
《見える世界と見えない世界》
RIの国際会議や研修会などでは、スピーチの冒頭でよくジョークが聞かれます。そこで私も最初にジョークを一つ申し上げます。それは「夜道の街燈」というジョークです。
『暗い夜道に街燈が一本立っています。その街燈の下だけが明るく、周りは真っ暗闇です。その街燈の下で何やら探し物をしている人がいます。通り掛かりの人が「どうかされましたか?」と尋ねました。するとその人は「えー、私は大事なものを落としてしまいました。落としたところは向こうの暗いところですが、ここが明るいのでここで探しています」と答えました』
このジョークは要するに、大事なものを落としたのに、落とした場所と違う別の場所で探しているというあまり笑えないジョークであります。
しかし、このジョークは、実は深い意味を持っておりまして、我々は現実の世界、つまり明るい「見える世界」だけを真実と思い、その「見える世界」を背後から支えている「見えない世界」を、我々ロータリアンはなくしてしまいました。
ロータリーは「見える世界」と「見えない世界」から成り立っています。会員増強とかポリオ、ロータリー財団への寄付は目に見える現実の世界です。
我々は現在「見える世界」しか現実と思わないのは、全てがカネに換算される社会に生きているからです。人間と人間の関係性から生み出されたあらゆる商品がカネに換算され、すべてのものが動くわけです。そのカネを集めて財団に寄付をする。ロータリーの世界もカネという目に見える実体としてすべてのものが動くわけです。
そうすると目に見えないもの、「憐み、慈しみ、思いやり、愛情、友情」、あるいはカネへ換算できない「見えない世界」が理解できなくなってしまいます。「見えない世界」を意識の下に押しこめ、すべてを実態に還元しようとするこの時代、「見えない世界」が忘れられ、分からなくなってしまいます。
元RI会長のビチャイ・ラタクルさんは、国際協議会で次のような話をされました。『ロータリーは、過去に何百万人もの貧困、飢餓、疾病に苦しむ人たちに救いの手を差し伸べてきた。それは大変偉大なことである。だが今、我々はその奉仕の実践のもととなる哲学を失ってしまった。何と悲しいことだろうか』
ラタクルさんの奉仕の実践のもととなる哲学とは、「見えない世界」の思いやり、助け合いのことでしょう。
我々は今、「奉仕の実践」の出発点となる「見える世界」と「見えない世界」の回路をつなぎ直さなければならないのです。
《奉仕の出発点》
新聞や、テレビや知り合いの話などで何らかの困難に直面している人のことを知った時、我々のほとんどは心が動くのを感じます。「さざなみ」のようなかすかなものか、深い実感を伴ったものかはその時によるとしても、人としてごく自然な気持ち(憐み、慈しみ、思いやり)といった「見えない世界」が奉仕の出発点であります。
何かしらの気持ちを持ったとしても、しかし次の瞬間、次の日、次の週には、日常の忙しさと自分自身の問題に埋もれて、そのことを忘れてしまいます。
または気になっているとしても、忘れたふりをして済ませてしまうというのが、私を含めた、我々のほとんどの毎日でしょう。ロータリアンは心の「さざなみ」を直ちに実行することが期待されています。
そのためには、自分の心の中の「奉仕の心」を訪ね、その心を涵養しなければなりません。特に“Solidarity of The race”(人類連帯) というロータリーの主概念を徹底的に学び、自分の血肉としなければなりません。
今、新聞や、テレビや知り合いの話などで何らかの困難に直面している人の情報を知った時、我々のほとんどは心が動くのを感じますと申しました。
養老孟司さんは著書『バカの壁』の中で『五感から入力した情報を実行する間、脳は何をしているか。入力された情報を脳の中で回して動かしているわけです。この情報をX、出力をYとします。すると、Y=aXという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報Xに、脳の中のaという係数をかけて出てきた結果、反応がYというモデルです』
脳の中のaはロータリアンの場合は「奉仕の心」と考えられるでしょう。
そこで養老孟司さんの一次方程式をロータリーに当てはめてみましょう。
奉仕の一次方程式⇒Y=aX
Y=奉仕の成果
a=奉仕の心 憐み、慈しみ、思いやり
X=貧困・疾病・飢餓など困難に直面している人の情報
Y=奉仕の成果はaの数値に比例して変わります。
つまり奉仕の成果は「奉仕の心の大きさに」比例するのです。
ロータリアンにはおりませんが、非常に特殊なケースとしてa(奉仕の心)=ゼロということがあり得るでしょう。この場合は、どんな情報が入力されても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです。行動に影響しない入力はその人にとっては現実ではない、ということになります。
ロータリアンにとっては他人を幸せにする能力aを向上させ、奉仕の心を磨いていくことが何より大事なことなのです。
ポール・ハリスは『ロータリーの中にあるもの、それは善行だけではありません。善行というのは、その下に隠された何ものかが外に姿を現わしたにすぎないのです。ロータリーの沢山の善行のかげには、「目に見えない力」が働いているのです。それは善意の力です。この世界で最も強い力の中には、「目に見えないもの」もあります。私たちの呼吸する空気にせよ、目には見えませんが、私たちの生命を支えてくれるのです。ロータリーの沢山の善行の陰にも、「目に見えない力」が働いているのです。それは善意の力であり、その善意の力によってロータリーは存在しているのです』と語りました。
この様に見てくると奉仕とは、奉仕の行為のみを云うのではありません。困っている人の戸口へ、そっと物を置いてくるという行為は立派な奉仕ですが、困っている人のところへ、そっと物を届けてあげたいという心こそが真の奉仕なのです。
「見えない世界」とは、行動ではなく倫理を思索することです。では思索と実践とはどちらが尊いのでしょうか。この問いに対する答えは明瞭です。
何故なら人生においては、実践ほど尊いもののないことは明らかです。生きることは創造することです。そしてその創造は実践行動によってのみ実現されるからです。しかしながら、実はここにこそ最大の問題が潜んでいます。それはいったい何を実践するのかという問題です。そしてこの時燦然と輝きだすものこそ、「見えない世界」(ロータリーの奉仕哲学)なのです。哲学のない実践は盲目的であり動物的であります。
綱領(ロータリーの目的)の前文には「ロータリーの目的は、奉仕の理念を奨励し、これを育むことにある」と書かれています。時代がいかに変化しようとも、ロータリアンのなすべきことは、「見えない世界」の思索、涵養に尽きます。
参考・引用文献 *ボランテイァ 金子郁容著 *バカの壁 養老孟司著
(2014.01.26)