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炉辺談話(148)

ロータリーとIT (私自身編) 

自分のホームページでありながら、自分自身のことを書き込む機会があまりなかったので、私自身とITとの関りについて書いてみたいと思います。

終戦直後、満州で父親を亡くし、小学校6年の夏に、広島県福山市近郊の町に引き揚げてきました。当時から「初歩のラジオ」やら「無線と実験」を読み漁り、知り合いに頼まれては、配線図を頼りに、並四やら高一を組むというアルバイトに精を出していました。

中学、高校時代は毎月一度は夜行列車に乗って、秋葉原や日本橋に行き、注文されたラジオの部品を揃えたり、進駐軍の放出品のGT管や当時はまだ珍しかったMT管を買い込みました。6D6、6C6、6ZP1、12F全盛のころでしたから、6V6メタル管など見つけたら、鬼の首でも取ったような喜びでした。その後まもなくスーパー・ヘテロダイン方式が盛んになり、その分離度の素晴らしさにびっくりしものです。今思い起こせば、私の住んでいた町のかなりの家には、私が作ったラジオが使われていたのではないかと思います。

高校時代は、やっとアマチュア無線が解禁になったので、終段807の無線機を作ってはアン・カバーで波を出して遊んでいました。

大学時代の教養課程のころ(1955-)は、当時はやったHI-FIセットを幾つか作った記憶があります。姫路のある音楽喫茶に依頼をうけて、2A3パラ・プッシュという当時としては大出力のシステムを作ったこともありました。
医学部にはいってからは、勉強に追われたことと、真空管からトランジスタやICに変わったこともあって、約20年の空白時代に入ります。

1970年代に入ってから、アマチュア無線を再開しました。庭の20メーターの鉄塔に、HFから2GHzまでのあらゆるアンテナをつけて、日夜交信に励んでいました。無線の部品を買いに日本橋にいったときに、たまたまみつけたTK-80というコンピューターの入門キットを買ったことを機会に、コンピューターに病み付きになり、その後買ったL-Kit 16で、完全にはまり込みました。当時は機械語しかありませんでしたが、やがてBasic Boardが発売になり、ますます病が重くなっていきました。

たまたま私がカウンセラーを勤めた台湾からの米山奨学生がコンピューターを専攻していたこともあって、1980年ごろから、診療所に併設していた眼鏡・コンタクトレンズ会社の二階を開放して、留学生専用のソフト製作部門を設立しました。
某一流コンピューター会社の営業部長だった私の友人が、窓口になって、その会社では扱わない小口の仕事を回してくれました。当時は、日本人が全員プログラマーになってもまだ足りないと言われた時期だったので、仕事が殺到しました。私は主にBasicやCのプログラムやゲーム・ソフトを開発し、留学生はそれぞれの能力に応じて担当分野を決めて、コボル・フォートランのプログラム作成や多機種へのコンバートを受け持ってもらいました。当初、実務ができるのは数人で、大部分の者にはコンピューターの勉強をしてもらいましたが、半年も経たないうちに実務に携われるようになりました。

この会社の存在はいつの間にか口コミで知れ渡り、関西の留学生の溜まり場と化し、コンピューターのできる人は機械に向かい、これから大学を受験する人は受験勉強を、来日したての人は、日本語の勉強をするために集まり、毎日30人ぐらいの東南アジアの若者がたむろする日が、阪神大震災で建物が全壊する日まで続きました。

このことを、新聞各紙が記事にしたため、大騒ぎになったこともあります。当2680地区の多胡PDGがこの記事を読まれて、ロータリーの友に1ページの記事を寄稿されたこともありました。これがきっかけになって、国際奉仕関係の地区委員が毎年のように回ってくるようになりました。

この間、私が作ったゲーム・ソフト(当時としては珍しいフル・グラフィックのものです)の代金代わりに、PC8801のフル・セットを貰ったり、PC9801のフル・セットに100万円も払ったり、清水の舞台から飛び降りる覚悟で10Mのハード・ディスクを買ったり、IBMからJシリーズのPC2台を無償提供してもらったり、銀行システムのコンバートのため箪笥ほどもあるオフコンをリースしたり、8086をメイン・プロセッサーにしたコンピューターを手作りしたり、思い出は尽きません。

せっかく日本に勉強をしに来たのだから、中華料理屋の皿洗いやスナックのホステスなどではなく、最新技術であるコンピーターを使ってアルバイトをしてほしいという発想から始めた会社なので、総収入の80%は給料として留学生に配分し、残りの20%を経費として使ったため、結局15年間でかなりの額が私個人の持ち出しになりましたが、いい経験をしたという大きな喜びが残りました。
この間、私の会社に出入りした留学生は300名を越え、今は日本国籍を取得した人、日本の会社に勤めている人、故国に帰って政府の高官になっている人と様々ですが、今も彼らとの交流は続いています。

1990年ころから、鉄道模型にこり始め、3階の屋根部屋一杯に、町や田舎や、トンネルや鉄橋などのジオラマを組んで、コンピューター制御で列車を走らせました。始めはNゲージだったのですが、ジオラマのシーナリーがどうしてもオーバー・スケールになるので、思い切って全部HOゲージに組みなおしました。娘二人がニューヨークとハワイに住んでいるので、娘を尋ねることを口実に渡米しては、模型屋回りをしていました。

1995年の正月もハワイの長女の家で迎えました。シーナリーに使うプラモデルの駅舎や家をトランク一杯買い込んで帰国し、連日半徹夜で出組み立て終わった1月17日に、阪神大震災に見舞われ、見事に全部壊れてしまいました。
診療所が全壊したことを口実に、死体検案、災害本部詰、巡回診療所、避難船の船医と毎日飛び回っている姿を、見るに見かねた友人が、自分のビルの一室を仮診療所として提供してくれて、やっと落ち着いたと思った直後の1995年5月、晴天の霹靂とでもいうべきガバナーの指名を受けました。

ガバナー・ノミニーとして諸準備に追われていたころ、RIがウエブサイトを開設したという情報を聞いたので、何かの参考になるかもしれないと考えて、今までは子供の遊びと頑なに拒んでいた、インターネットにアクセスすることを決意して、1996年2月、プロバイダー契約をしました。

ガバナー在任中は、今と違ってインターネットやメールを使う環境はあまりありませんでしたから、Pentium搭載の90MHzのPCは、ワープロ専用でした。しかし、私のガバナー年度の月信は、全部フロッピー渡しにしましたから、植字や校正の手間が省けて印刷経費はかなり安く済みました。先日、ほんの偶然から、私が地区委員会の委員を決めるために作ったエクセルを開いて、7年前のことを懐かしく回想しました。

1992年ごろから、ホームクラブの会員を対象にして「ロータリー研究会」と銘打った勉強会を月1-2回行っており、その講義用の原稿や、ガバナー時代のスピーチ原稿がかなりの量たまっていましたので、それをウエブサイトに掲載することにしました。最初はその原稿をクラブに提供して、クラブのウエブサイトの一部として発表するつもりだったのですが、クラブ理事会がウエブサイト開設そのものに難色を示したので、しびれを切らした私が、1999年5月24日に、個人サイトとして「ロータリーの源流」を立ち上げたというのが真相です。

その後はRJWのお世話をしたり、各種のRIの役職が回ってきたりして、多忙な毎日が続いています。しかし、「ロータリーの源流」を公開した関係で、日本各地、更には台湾や韓国やアメリカにもウエブを通じた友人が大勢できて、喜んでいます。特にデブリン会長から、ロータリー界のIT化を進めるための同士として、公私を通じていろいろな場面で応援していただいたことは、私にとって大きな励みになりました。

新しいトピックスをとりあげた「炉辺談話」は可能な限り毎週更新するように心がけているのですが、時には遅れたり抜けたりすることもあります。こんなときには必ずと言っていいほど、催促のメールが入ります。それも、多くの方が読んで頂いている証拠だと感謝しつつ、私独特のかな文字入力、人差し指打法で、毎日キーボードと格闘しています。