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炉辺談話(198)

七曜倶楽部

1939年7月、RI理事会は日満ロータリー連合会の設立を認め、それに伴って、日本は3地区に分割されました。
第70地区・・・名古屋以東の20クラブ
第71地区・・・西日本、台湾の19クラブ
第72地区・・・朝鮮、満州の8クラブ

1940年5月、第1回日満ロータリー連合大会が横浜で開催され、会長には米山梅吉が選ばれましたが、これが戦前の日本ロータリーの最後の大会となりました。
 この時期から、ロータリアンの涙ぐましい努力にもかかわらず、ロータリーに対する、アメリカのスパイとかフリーメーソンといった批判はますます激しさを増していきます。クラブ旗の隣に国旗をかかげ、月初めに国歌を歌うという、現在では極く普通の例会風景も、実は国家への忠誠心を示すために考えられた、この当時の歴史的な名残だといわれています。 

ドイツでは42クラブ、オーストリアの11クラブ、イタリアの34クラブが解散し、日本でも解散を真剣に考えるクラブがでてくる一方で、弾圧による解散に先立って、國際ロータリーから自発的に離脱し、別組織として、その精神性を維持する方法を選ぶべきだという意見がでてきて、クラブ間の調整が取れない状態になってきました。

日満ロータリー連合会は緊急会議を招集して、クラブ存続の決議をしましたが、8月8日に静岡RCが、引き続いて、8月12日に大阪RC、8月19日には岡山RCが解散します。その後、8月21日には京都RC、その後も広島、高知、金沢と解散が続いたため、9月4日、日満ロータリー連合会は総会を開催して、RIから脱退して、独自の日満連合会を組織することを決定し、その創立委員25名を指名しました。
 東京RCが解散を決定したのは、9月11日のことであり、米山梅吉は、重い足を引きずるようにしながら壇上に立って、次のような、最後の挨拶をしました。

拝啓 時下各位益御清祥慶賀此事に奉存候

陳者各位と共に終始其発展に努力致し來り候ロータリー運動も一旦廃止の己むを得ざる事態に立到り候こと誠に今昔の感に堪へざる次第に候
 多年間断なき無数の會合に於て舊ロータリー倶楽部が重きを會員各自の職能に措き往來親睦に手を握りて互に相勵まし陰に陽に奉仕の一念を以て事に従へる為過去二十年ロータリーが清新にして而かも活溌なる社交機關として世の信認を博せること偶然にあらずと存候
 其発展に於ても日満四十八市を網羅し軅ては百倶楽部の陣容を整へ恰も東亜勃興の新機運に参して大いに國際正義の達成に資するを得んことを庶幾し昨年既にクリーブランドに於けるロータリー世界大會に向ひ吾が主張を聲明しロータリーの組織を改め國家単位の機構に礎石を置かんとし益多望なる前途を豫期せる際不幸なる影響を受け意外の蹉跌を見るに至れること此上なき恨事と申ぐべく御同様残念に堪へざることに候
 何れにもせよ國際ロータリー離脱のことは豫て其組織關係に更改を企圖致居候ことにも有之旁日満ロータリー倶楽部解散の決行は乍遺憾誠に己むを得ざりし次第に候
 抑も奉仕の理想に基き各自の職能により國家社會に貢献し公益の増進にカめ外は以て國際の諒解を正しくせんが為めに實業及び専門職業人たるロ-タリアンが努力多年に亘り會員間に醸成したる特殊の熱情は一度ロータリアンたりしものの永く保持して用を為さんとする處にして是即ちロータリーの後身として新社交倶楽部を創設し従來の意義ある友交開係を継続致し度き希望に燃ゆる所以に候
 先般臨機に委員を擧げ協議の結果假定致候規約案は曩に御手許へ差上置候通りに候右御準用の上今や適宜御発會被成候て然るべき時節と相成候やう存候
 大阪に於ては既に規約を設け金曜會を創立各地にも夫々類似の御催あり且又一二直ちに倶楽部の組織に出てんとする處も有之ことに承知致候
 斯くて所在に新組織成立致候上軈て一定の名稱及び相互の連繋等に付き工夫を要する時機不遠到來可致存候へ共従來の日満ロータリー聯合會は既に全く解體、月刊機關誌も廃止のことに致し目下残務の整理に従事罷在候自然の成行は御承知被下候通りに候
 凡そ忠良なる日本國民として臣道實践の方途は多々可有之支那事変以來舊ロータリーの対外活動に於ても之を見たることに候へ共今や純日本主義に創設さるべき吾等の新組織は更に大に其主義精神を発揚して國家社會に貢献し殊に現下の非常時局に即応する為め各自の職場に於て大政の翼賛に寄興致すべきこと必然と存上候以上貴意を得るに當りロータリー過去の歴史を回顧し感慨無量文辭悉きず偏に各位の御自重を所り候

昭和十五年十一月十六日                                敬具

                         米 山  梅 吉

9月11日、日満連合会は会合を開いて、既に大阪で作られていた定款を基に協議して新定款を起草し、9月25日の会合でこれを採択し、この会の名称を「七曜倶楽部連合会」としましたが、この会がどのように運営されたかの資料は残っていません。

各クラブのRI脱退および七曜倶楽部結成状況は次の通りです。

クラブ名

脱退年月日

再組織名

静岡

15・8・8

木曜会

大阪

15・8・12

金曜会

岡山

15・8・19

水曜会

京都

15・8・21

水曜会

広島

15・8

火曜会

高知

15・8

火曜会

金沢

15・9・1

水曜会

今治

15・9・5

木曜会

神戸

15・9・15

木曜会

盛岡

15・9

木曜会

名古屋

15・9

同心会 → 火曜会

函館

15・9・4

函館職能協議会

帯広

15・9・5

木曜会

小樽

15・9・7

火曜会

新潟

15・9・7

火曜会

東京

15・9・11

水曜会

旭川

15・9・23

金曜会

四日市

15・9

木曜会

郡山

15・9

金曜会

仙台

15・9

火曜会

横浜

15・9

同人会

札幌

15・11・20

札幌職能会

西宮

15・12・16

火曜会

福岡

16・7・1

清和会

釧路

16・10・10

釧路職域懇談会

 各クラブはロータリー・クラブの名前こそ外したものの、七曜倶楽部と名を変えて、従来のロータリー・クラブ時代と同じように、毎週一回の例会を開いていましたが、戦争が始まって、物資の欠乏と共に、弁当持参や、誕生祝いのケーキの代わりに水飴を贈った(東京クラブ)というエピソードが残っています。その後例会場の軍接収、空襲による破壊などによって、集まる場所を転々と変えたり、例会を一時中断しながら終戦を迎えます。

ロータリーの組織から離脱したにもかかわらず、その活動が実質的に継続されたことは驚異に価する事実です。戦前の日本のロータリアンの心にロータリーの理念が完全に理解されていたが故、組織がなくなっても、運動自体は何ら変ることなく継続されていたのでしょう。