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炉辺談話(21)

   1995-96年度RI会長ハーバート・ブラウンは当該年度ガバナー全員との名刺交換の際、地区の会員増強目標の数字を書かせて、退任前にその実績を確認したことは、有名な事実です。「待ったなし」で会員増強を迫ってくるRIに対して、反論を唱える人も決して少なくありませんし、本来ならば、RI役員としてそれに従い、クラブに伝達すべき立場にあるガバナーの中にも量よりも質を重んじた発言記録が数多く残されています。

 米山梅吉ガバナー月信の昭和5年7月25日号には「日本には米國其他或る國に行はるゝ如く一擧に多数のクラブを設立し無暗に會員の増加を計るを得策とせずとの當方の意見」と書かれていますし、昭和6年5月23日号には、「十一年前日本に於けるロータリー・クラブ創立の當初より、我等の[量よりも質に於て]との理想はロータリー自体の理想と共に固守せられて今日に及べることは、諸君と共に相顧みて満足を感ずる次第なり。我が第七十區内には尚僅かに十一のクラブを有するに過ぎざるは、量に於ては少きに失すとなすものあらむも、質に於ては諸君と共に之が倍数のクラブに匹敵して遜色なかるべきの自信を有す」という記述があります。
 また、1957年度368地区ガバナー直木太一郎は「今しばし拡大をやめて、今居るロータリアンの原石を磨くべき時ではないか」という名言を残す一方で、「私はロータリーの発展には、質の向上と数の増加が車の両輪の如く必要であると信じています」という言葉も残しています。

 量にこだわる余りロータリー理念を理解していない会員が増えると、まともな運動ができないことは当然ですが、そうかといって極端に会員数が少なければ、ロータリーの理念を社会に広めることが不可能になります。これは即ち、量と質の双方が必要であることを意味しているのです。

 量質論争で我々が陥りやすい過ちは、「量」×「質」=a(定数) 即ち、「量」が増えると「質」が下がり、「質」を上げようとすると「量」が減るのではないかという錯誤です。ロータリアンとしての資質備えている人が限られた小数しかいないのならば、その定数を越えた量が入会すれば質が下がるのは当然ですが、果たしてそうだと言い切れるのでしょうか。ロータリアンは質の高い職業人のみによって構成されいるというのは、希望であると共に奢りでもあります。会員の中にも質の低い人が存在し、会員でない人の中にも良質な人は数え切れない程、存在するのです。
 「質」とは何を意味するのでしょうか。定款上の会員の条件は、「善良なる成人で、職業上良い世評を受けている者」となっているにもかかわらず、この条件以外の「質」を巡って、誤った判断基準をしているのではないでしょうか。大会社の社長とか、金持ちとか、業界の大御所といった世俗の論理にに基づいた序列が「質」を表すものでないことは誰にでも判りますが、高い道徳的基準を持っているだけで、質の高いロータリアンであると言い切れるわけでもありません。

 敢えて結論を述べれば、如何にロータリーの奉仕理念を理解し実践できるかが、ロータリアンの質を判断する基準になると思われますが、その素質を持っているか否かを、入会前に判断することは不可能でしょう。そう考えていけば、会員の質を高めていく作業は、入会後に、毎週の例会や奉仕活動の実践といったロータリー活動を通じて、実施する筋合いのものであることが判ります。

 将来素晴らしいロータリアンになれる資質を持った人だと信じるに値する人を積極的に会員増強して、一生涯続く自己研鑚の場であるロータリー・ライフの中で、その質を高めていくのが、最も現実的な方法ではないでしょうか。
 既にロータリーの会員になっている人全てが、良質だと考えることは幻想に過ぎません。長年クラブに在籍しながら、ロータリーの理念を忘れた人たちを再教育することも、質を高めるために是非とも必要な活動です。