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炉辺談話(237)

朝はいつきた、花はいつ咲いた

 朝がきたことをどのように定義したらいいのでしょうか。東の空がかすかに白みがかったときでしょうか。地平線の彼方に太陽の上縁がかかったときでしょうか。それとも太陽が全部姿を現したときでしょうか。仮に、地平線の彼方に太陽の上縁がかかったときと定義したとしたら、四方を山に囲まれた谷あいに住んでいる人たちにとって、地平線とは小高い山裾を指すのでしょうか。

花が咲いたことをどのように定義したらいいのでしょうか。蕾がかすかに開いたときでしょうか。それとも花びらが完全に開いたときでしょうか。

ロータリーについても、これと同じような疑問が幾つも湧いてきます。

ロータリーが創立されたのはいつなのでしょうか。
古い文献を紐解けば、ロータリーが創立したのは1904年だという説や1906年だという説がでてきます。1904年や1906年は間違いだとしても、RIは1905年2月23日をロータリー創立の日と定めていますが、この日には僅か4人の発起人が非公式に集まって、新しいクラブについての発想を話し合ったに過ぎませんし、3月9日に開かれた2回目の会合も、人数こそ7人に増えたものの、入会資格と例会場持ちまわりについて話し合ったに過ぎません。3月23日に開かれた第3回目会合で、やっと役員人事とロータリークラブの名称が決定していますから、正確に定義すれば、1905年3月23日がロータリーが正式に発足した日ということになります。

ロータリーの創立者は誰なのでしょうか。
1907年にシカゴクラブが発行した会員増強の広報には、「4人の若い実業家、ポール・ハリス、ハリー・ラグルス・ガスターバス・ロア、ハイラム・ショーレーは1905年2月にクラブを発足させた」と記載されています。初代会長を務めたはずのシルベスター・シールの名前が見当たりませんが、これは明らかに間違いだと思われます。
なお、ライオンズの文献には、この最初の会合には、ポール・ハリスの弟である当時19歳のレジナルド・ハリスが同席していたという記載がありますが、真偽のほどは定かではありません。

週1回の例会を2週間に1回にしようという提案が毎回のように規定審議会にだされています。けしからぬ提案だとお怒りの方も多いようですが、ロータリーの創立当初は2週間に1回の例会でした。2週間に1回集まれるのなら毎週集まれない道理はないということで、毎週1回の例会に変更されたといわれていますが、それがいつ頃のことなのかは判りません。1916年に発行された「ロータリー通解」には、「毎週1時間、月52時間の例会時間」という記載がありますから、この頃にはすでに毎週1回の例会が定着していたものと思われます。1922年、定款によって毎週1回の例会が定められましたから、それ以降に設立されたクラブはこれを適用せざるを得なくなりましたが、それ以前に設立されたクラブはいわゆる特権クラブとして、当初に定めた例会回数を継続することが現在でも認められています。東京クラブを始めほとんどの特権クラブはその権利を返上して、RIの標準クラブ定款を採用していますが、中には未だに特権クラブの権利を保留しているクラブもあるかも知れません。

ロータリー年度の変化も興味深い事柄です。2月に創立したことから、当初は2月から1月までがロータリー年度でした。その後半端な区切りであるという理由から1月から12月に改正されたという記録がありますが、それがどの年代であったかは判りません。1916年からは、7月から始まり6月に終わるように変更されて現在に至っています。
何故ロータリー年度を7月から6月にしたのかという理由は判りません。もっとも、日本の学期や会計年度が4月から3月までであり、外国の学期が9月からという理由も判りませんが。

ロータリーという名前がどのような経緯を経てつけられたのか、ロータリーのエンブレムがどのようにして決められたのか、初期のクラブ例会がどのような形で開かれたのか、数多くの興味や疑問が湧いてきますが、残念なことには、これらのことを正確に記載した一次資料はどこにも見当たりません。

当時は、単なる親睦を深めるだけの社交クラブが、雨後の筍のようにできては、潰れていった時代です。ポールも複数の社交クラブに在籍しており、その延長線上でロータリークラブの設立を思い立ったものと思われます。いつまで続くかの予測も立たない状況の中で、とりあえず設立したクラブが100年も続き、このような発展を成し遂げたこと自体が、予想外のことであったに違いありません。
そんな思惑もあってかどうかは判りませんが、1910年にロータリークラブ連合会が設立されるまでのシカゴクラブの運営は極めてずさんなもので、記録らしい記録はまったく残していません。今日伝えられている初期ロータリーの歴史は、チャールズ・ニュートンの記憶を基にして、後日まとめたものだと言われています。正確な資料なしに彼の記憶を頼りにしてまとめられた結果、年月日、場所、内容共に錯誤や正確性を欠く部分がかなりあったとしても不思議ではありません。1934年にシカゴクラブの依頼を受けて、シカゴ大学社会科学調査委員会が「Rotary ?」を発行したときに、かなりの古い文献を収集した模様ですが、現在では、その資料すら散逸している状況ですから、ロータリー創立の日がいつかという論争が起こるのも無理からぬ話です。

ロータリーがいつ、誰によって創立されたかは、さほど重要なことではないかも知れませんが、ロータリアンとして、ロータリーの正しい歴史を知りたいと思うのも人の常です。朝がきたり、花が開いた正確な時間が知りたいのと同じです。

シカゴクラブの歴史をまとめた文献として、「ゴールデン・ストランド(オーレン・アーノルド著)」がありますが、この文献とて、数少ない資料を基に、1966年に発行されたものなので、推測や錯誤がかなり見られ、二次資料の域をでない文献です。

日本ではRI脱退や第二次世界大戦の影響で古い文献はほとんど残っていません。東京と札幌にロータリー文庫がありますが、特に目新しい文献はありませんし、かなりの文献を揃えていた兵庫ロータリー文庫は阪神大震災で瓦礫の山と化しました。
RIの資料室も同じような状態で、現在、分類されて、コンピューターで管理されている文献はおよそ1000冊しかなく、その中で1910年以前の資料は僅か数冊に過ぎず、蔵書のほとんどは新しいものばかりです。ただし、13階にある巨大な倉庫には、莫大な数の未整理の資料が無造作に山積されています。この中には、貴重な資料が誰の目にも触れることなく眠っているはずであり、それが放置されている事は、非常に残念なことです。