杞憂論争
1967年、世界社会奉仕とインターアクトに関して、直木太一郎パスト・ガバナーと松本 兼二郎RI理事とが、ロータリーの友を通じて行った、いわゆる「杞憂論争」をご紹介いたします。まずご両人のご見解を紹介し、次いでその論点について私なりの解説をしてみたいと思います。
杞 憂
パストガバナー 直木太―郎
事故による後遺症むちうち病で手足がしびれ、約半年休んでいる間に、私は今日のロータリー活動について抱いている疑問をどうしてもぶちまけたくなった。その疑問というのは、今やかましく言われている世界社会奉仕とインターアクトクラブとに対するものである。
ロータリーでいう社会奉仕とは、自分の生活している地域社会を住み良くするため身をもって努力するということで、特にクラブとしての社会奉仕は23-34の決議によってその本質が明らかにされ、他の機関や施設と重復したり競合しないよういましめられている。その国際奉仕もまた国を異にするものの間における個人と個人との親善と理解、そしてそれから生ずる同志感によって世界平和を達成せんとするものであると聞いている。そのため核爆発や黒人問題、またべトナム戦争などにも触れずに今日まで来られたのである。
しかるにここに世界社会奉仕を唱えて、開発のおくれている国の文盲を無くし貧困を退治しスラム街を解消しようということは、既に政府にも民間にもいろいろの機関や施設ができている今日、いたずらに重復と競合とをもたらすものではないだろうか。人はそれぞれこれと思う機関に参加協力し、施設に援助することによって十分その目的を達することができる。自分の地域社会がこれで良いというところまで行っていないのに、どうして他国のそれまでにロータリークラブとして乗り出さねばならないのか、しかもこれはどうしても結局政治によらなければ成し遂げ得ないものである。
インターアクトクラブ運動も青少年奉仕活動の一つとして国際理解のために企てられたものと聞いているが、国際ロータリーで一定の標準定款細則をつくりこれに認証状まで与えていることは、インターアクトクラブがロータリーから全く独立した別のものだとせられていることから言うと、おかしなものである。その将来についての責任はどうなるであろうか。
近来、何んでもかんでもすべてロータリーでといういわゆるロータリー万能の傾向があらわれて来たのではなかろうか。これについては既に戦前においてわれらの先輩井坂孝氏が「ロータリーは決して人間一切の行動を律するものではない。職業に関するものだけである」ときびしく戒めている。そして一業一人制の意義を説き「ロータリアンはロータリーからそれぞれの業界へ派遣されているアンバサダーの役割をしなければならない」と言って特に業務遂行上の賄賂の厳禁を求めているが、この一事についても日本の現状はどうであるか。ロータリアンの為すべきことは山ほどあるのではないかと思われる。
更に、この世界社会奉仕やインターアクトクラブ運動のような重要なことが、国際ロータリーのコンベンションで論議せられ決議されたということを私は寡聞にして知らない。もし万一これらのことがただ理事会の決定だけで、先に定款できめられているロータリー財団と同じように取扱われているとするならば、RIBIからエバンストン帝国などと言われる因がここらあたりにもあるのではなかろうか。
世界社会奉仕とインターアクトクラブ。この二つはこれからのやりかた如何で、或いは将来のロータリーの発展に危険をもたらす禍根になりはしないかと私は心配するのである。このような迷妄におそわれるのも私の病的な頭をおおうている黒い雲の故かも知れない。諸賢の御教示を得て一時も早くこの黒い雲をふきはらって晴れ晴れと病気全快を迎えたいと思っている。
(シニアアクチブ・米穀販売)
ロータリーの友 1967年7月号
「杞憂」を読んで
八幡 松本 兼二郎
「友」7月号「友愛の広場」に寄せられた直木パストガバナーの「紀憂」と題する一文は、考えさせられる多くの示唆を含んでおります。私は繰り返し拝読して静かに思考を重ねました。そして、幸にして直木さんが自ら題せられた如く、直木さんの憂えられる所は、本当に杞憂に過ぎないであろうと云う、私なりの結論に達しましたので、ここに愚見を発表させて頂きたいと思います。
社会奉仕に対するロータリーの基本的考え方は直木さんの云われる通りで、これについては何人も異論は無いと思います。ロータリークラブが地域社会に根をおろして、会員の個人生活、職業生活、社会生活のすべてを通じてその地域社会の福祉に寄与責献することを本旨とすると云う点についても同様だと思います。本年度の国際ロータリー会長ルサー・ホッヂスも「ロータリアンが国際的視野に立って物を考え、国際奉仕を心掛け、世界社会奉仕に力を入れるのは望ましいことであり大変結構なことではあるが、ロータリーの基本は今も昔も変らず、地域単位の奉仕活動であると云う根本理念を忘れてはならない・・・・」と強調しております。世界社会奉仕の構想を最初に取り上げた時にも、この基本理念は決して忘れ去られた訳ではなかったと思います。にも拘らず、これがロータリーの一つのプログラムとして採択されたと云うのは、この構想がロータリーの「地域単位」と云う根本理念と決して矛盾しないことを確認したからだと思います。
一つの地域社会が独力でやれないことを、或いはその国の政治が貧困であるために与えて貰えない助力を、その地域のロータリークラブの呼びかけに応えて・・・或いはそのような呼びかけがなくともそのような事実の存在を知った時に・・他の地域のロータリークラブ(或いはロータリー地区)が助力の手をさしのべる・・・・これが世界社会奉仕の考え方だと思います。これがロータリーの社会奉仕の基本観念と矛盾するとは考えられません。なぜなら、ロータリークラブが独力で地域的に充分な援助をする力が足りない場合に、他の地域のロータリークラブが余力を以てこれを助けると云う道が開けたことは、基本理念(地域に基礎を置くと云う)の補強であって、これをそこなうものでは決してないと考えるからです。ロータリー以外の他の機関が既に何かやっている揚合には、ロータリーの世界社会奉仕はそれに側面から援助協力する形を取るべきであって、これと競合して奉仕を重複させることは、常にRIが厳に戒めているところです。従って、もし競合や重複が起ることがあるとすれば、それはこのプログラム自体の責めではなくて、実施両における運用がRIの方針に悖るところから起るのだと思います。(同じことは、地域社会奉仕だけについても云えます)
直木さんが具体的に言及された文盲をなくすことや極貧や飢餓をなくすことに対するロータリーの奉仕は、私の知る限りでは、ロータリーの寄与は対象国の政府や対象地域の地方政府その他の公共機関の施策に側面から協力すると云う範囲を出ていません。これは例えば水害や台風被害の場合、国や地方政府の施策が必らずあるにも拘らず、ロータリーが他の機関や個人と並行して援助の手をさしのべても、いっこう差支えがないのと些かも異るところはないと思います。RIの「世界社会奉仕委員会」のクレーグ委員長から理事会に提出された報告の中に、「世界社会奉仕を行なう場合、援助を与える側のみならず、これを受ける側においても、出来得ればロータリークラブの手を経ることが望ましい」と云う一項があります。これはそれによって受入側の実際の状況を明らかにして援助が有効適切に行われることを確保すると同時に、受入側の政府、地方政府、その他の機関の与える援助と競合重複することのないようにする配慮から出たものだと考えます。
次に、故井坂孝氏の言葉として引用された「ロータリーは決して人間一切の行動を律するものではない、職業に関するものだけである」(傍線は筆者)と云うのは、私には納得できかねます。ロータリアンの奉仕は、その「個人生活、職業生活、社会生活のあらゆる面を通じて」行われなければならないものと私は承知しております。云いかえれば、ロータリアンにとってロータリーの理念、即ち奉仕の理念は、生活のすべての面を通じて自らを律すべき基本理念であって決して職業に関する事柄だけではないと考えます。マックロフリン元RI会長の云った"You
are Rotary''と云う言葉には多くの含意があると思いますが、「ロータリアンにとってロータリーは生活そのものである」と云う意味も含まれていると思います。さればこそ彼は更に続けて”Live
it (Live Rotary)”'と云ったのです。
次に「世界社会奉仕やインターアクトクラブ運動のような重要なことが、国際ロータリーのコンベンションで論議せられ決議されたと云うことを知らない」と云われる点ですが、インターアクトも世界社会奉仕も、国際奉仕と社会奉仕との組合せともいうべき一つの奉仕のプログラムであって、その性格上、立法化を必要とする性質のものではないと私は考えます。このような、奉仕の具体的企画を一々立法化しなければならないとしたらロータリーの奉仕は煩雑になって、クラブも地区も中央事務局もその煩に堪えなくなると思います。
全国民の意思に基いて定められた憲法と法律の枠の中で、執行運営の機能を、同じく全国民の意思に基いて選ばれた執行機関(政府)に全面的に委ねるのが、民主主義の政治形態で、民主主義に立脚するロータリーも、これと同様の形態を採っていると思います。即ちコンベンションで全ロータリークラブの意思によって決定された定款細則の定めるところに従って、全ロータリークラブの意思によって選ばれた理事会が、最高の執行機蘭として、執行運営の衝に当ると云うのがたてまえであることは申すまでもありません。問題はどこまでを枠に織り込まなければならないか、どこから先は枠の中で自由裁量を許され範囲に入れてよいかと云う判定の問題になります。この点については、既に申し述べたように、インターアクトや世界社会奉仕は後者の範疇に入るべきものと私は考えます。
しかしながら、民主主義に立脚する如何なる制度においてもそうであるように、ロータリーでなされる決定においても、反対意見皆無の場合は寧ろ少ないのであって、多くの場合最終決定に賛成しない少数意見があるのが常であります。しかも民主主義は常にこれらの反対意見(少数意見)を尊重しなければならないことを要求しております。さりとて、賛成も反対も共に採択する道があり得ない以上、反対意見を尊重する方法は結局運営の面において常に反対意見の存在を念頭において事に当る以外にはないことになります。
従って直木さんが最後に書いておられる、「世界社会奉仕とインターアクトクラブ、この二つはこれからのやり方如何で、或いは将来のロータリー発展に危険をもたらす禍根になりはしないかと私は心配する云々」と云う一節は、ロータリアンがすべて耳を傾けなければならないところだと思います。私自身、現在のやり方について直木さんのような不安感は持っておりませんが、直木さんの云われるような心配の点については、少なくとも運営の面において深い戒心をもって行動しなければならないことを痛感致します。
なお、本稿は、ロ-タリアンとしての私の個人的見解であって、RI理事としての意見ではないことを念のため申し添えます。
(追記) RI理事会の決定は、コンベンションにおいて、立法又は決議を採択することによって、廃棄又は制約することができると記憶します。(唯今出張中の旅先で本稿を認めていますので、手続要覧を調べてこれを確認することが出来ませんが、もし私の記憶に誤りがあれば御叱正をお願い致します)
(パストガバナー)
ロータリーの友 1967年9月号
再び「杞憂」について
神戸 直木 太一郎
「友」9月号に「杞憂を読んで」と題して、RI理事の松本兼二郎さんから御懇篤な御教示と明快な解説とをしていただき、おかげで私が世界社会奉仕とインターアクトクラブに対して、R
Iのやり方について抱いていました疑問は、それらの奉仕のプログラムとしての内容の適否の意見にすぎなかったということがはっきり理解せられました。まことにありがとう存じます。
ただその中に、故井坂孝バストガバナーの言葉として、私が引用しましたところは前後の関係のない短いものであったために、とんだ誤解を招きましたことは、まったく私の至らなかった結果で、その責任上ここに少し補足をさせてもらいます。故井坂さんの言われましたことは「奉仕の生活は決してロータリーの専売ではない。ロータリーのなかった昔から奉仕の尊い生活はたくさんあって、人のため国のため死んだ人々まで加えると無数と言っていいほどである。今日でもロータリー以外の広大な社会において、奉仕のため無私の立派な生活をおくっている人は少なからずある。ただこれにロータリーがつけ加え得たと思われるのは、職業に関するものだけである。職業を通じて社会に奉仕する、すなわち職業というものは、それによって他の人々に奉仕するためにあるものであるという認識、これである。そのロータリーは一業一人制をとり、ロータリアンはその代表する職業分類の業界へロータリーから派遣されたアンバサダ一として、その業界にこのような職業観と信念とを普及する義務がある」というのでありました。
今日の「金きえもうかれば、どんな手段や方法を使っても」という日本のすさまじい世相はそれぞれの業界へ派遣せられているロータリアンの責任ではないとは言えないと思います。このようなロータリーの真髄から見ますと、世界社会奉仕は日本では少しほど遠い奉仕のプログラムではないかと思われます。それにしてもインターアクトクラブについてはRIで標準定款や細則などをつくり、その創立に認証状まで与えていることは、あきらかにRIの事業でありますが、これまでRIの唯一の事業であるといわれていましたロータリー財団については、コンベンションで慎重に何年も論議せられたうえで決議して実施せられたものでありますし、「ザ・ロータリアン」の発刊についてもコンベンションでの決定によって許されたものであります。ひとりインターアクトクラブがコンベンションで論議せられないのは、やはり単なる奉仕のプログラムの一つに過ぎないものというのでありましょうか。
(パストガバナー)
ロータリーの友 1967年10月号
以上は、先週、1967年に世界社会奉仕とインターアクトに関して、直木太一郎パスト・ガバナー(1957-58年度365地区ガバナー)と松本 兼二郎RI理事(1961-62年度370地区ガバナー)とが、ロータリーの友を通じて行った、いわゆる「杞憂論争」です
まず、この論争の背景となった当時の状況をお話しておかなければなりません。1962年、RI会長ニッティシ・ラハリーが提唱した世界社会奉仕の考え方が定着し、この年代から活発な活動が開始されました。また、インターアクト・クラブの運動をRI理事会が承認したのも1961年のことであり、この二つの新しいプログラムが定着し、積極的な活動を開始したことに対する大きなとまどいがあったことが想像されます。このお二方の論争に対して、どちらに軍配を上げるかはさておいて、その論争の焦点となった事柄について考えてみたいと思います。
先ず最初の争点は、世界社会奉仕は国際奉仕の分野に入っていますが、果たしてこの活動は国際奉仕なのか、それとも社会奉仕なのかという点です。
国際奉仕の目的は、ロータリーの綱領に「ロータリアンの世界的親交によって、国際間の理解と親善と平和を推進すること」明記されています。すなわちロータリアン同士の世界的な友情によって平和をもたらそうという考え方であり、これに基づいた活動として、1945年の国連憲章の制定に大勢のロータリアンが関わったことや、現在行われている活動として、ロータリー友情交換やロータリー親睦活動やツイン・クラブなどの活動があげられます。また、その対象はロータリアン自身ではありませんが、国際親善奨学金、GSE、国際青少年交換等もこの分野における対象を拡大した活動ともいえます。
それでは何故、世界社会奉仕が国際奉仕の分野に入っているのでしょうか。多分、国際間の援助活動だからという理由で国際奉仕に入れたものと思われますが、ロータリーの綱領上からは大きな疑問が残ります。RIの説明によれば、途上国の飢餓や貧困に援助することで、地域紛争を抑止することができ、これが世界の平和に繋がると言っていますが、これは詭弁としか思われません。
国際奉仕活動のほとんどが世界社会奉仕がらみの活動が占められている現在から見れば、直木氏の杞憂が、まさに的中したわけなので、これを国際奉仕活動の実践プログラムの一形態に過ぎないと放置しておくのはおかしなことで、早急にロータリーの綱領の国際奉仕の部分を改定して、「恵まれない国に対する援助」という一項を加える必要があります。この場合は、単なるRI理事会による決定ではなく、直木氏の言われるように、規定審議会による採択が必要となります。なお、この「杞憂論争」がなされた当時には規定審議会はなく、こういった規約の改正は、国際大会(コンベンション)で協議されていました。規定審議会が一本化されて立法案を審議するようになったのは1972年からです。
世界社会奉仕を社会奉仕の分野に移動させれば、規約改正の必要はなく、社会奉仕活動実践の一分野ということで、RI理事会の決定で実施可能と思います。
社会奉仕の語源はCommunity Serviceであり、Community内の人道的奉仕活動全般を指したものです。Communityの最小範囲は自らの家庭であり、その範囲を広げれば、町内、職場、行政単位、県、国、地球全体と考えることも可能です。
従来、ロータリーは、クラブのテリトリー内を自らのクラブのCommunityと定義していました。従って、他のクラブのテリトリーにおける奉仕活動は厳しい制限を受けていたわけです。しかし最近は、このCommunityの境界を拡大して、地球全体を一つのCommunityと考える方向に変わりつつあります。従って社会奉仕Community
Serviceの活動範囲も、従来のクラブ・テリトリーを中心とした狭い範囲から、地球全体に変えていく必要があるのです。
松本氏が述べているように、「一つの地域社会が独力でやれないことを、或いはその国の政治が貧困であるために与えて貰えない助力を、その地域のロータリークラブの呼びかけに応えて」他国のロータリアンやロータリークラブや地区が行う活動を「世界社会奉仕」と定義していることから考えると、この世界社会奉仕は、国際奉仕ではなく、社会奉仕の活動と言わざるを得ません。
次に決議23-34に抵触するか否かの論争です。
直木氏が指摘した、「23-34の決議によって、他の機関や施設と重復したり競合しないよういましめられている。・・・開発のおくれている国の文盲を無くし貧困を退治しスラム街を解消しようということは、既に政府にも民間にもいろいろの機関や施設ができている今日、いたずらに重復と競合とをもたらすものではないだろうか。」には、誰しも異論を唱える人はいません。しかし、政府や専門機関がこれらの施策を実施できないほど貧しい国が、世界に沢山あることも事実です。
決議23-34は確かに素晴らしい決議です。しかし、この決議が採択された1923年に、果たして、開発途上国の人たちのことを考えて、この決議を採択したかどうかは疑問です。決議23-34が当初、ロータリーの綱領に基づく全ての活動を規制するものとして採択されたドキュメントであることを考えれば、その後に起こってきた活動とはいえ、現在、人道的奉仕活動の大きな割合を占めている世界社会奉仕と矛盾するような内容のまま放置した責任は大と言わざるを得ません。
井坂孝氏が「ロータリーは決して人間一切の行動を律するものではない。職業に関するものだけである」という直木氏の指摘は、大いに議論する必要がありますが、困ったことには、そのことをしたためたと思われる井坂氏のガバナー月信第1号が残存していないことです。その中には、これまた直木氏がしばしば引用されている、ロータリアンが遵守すべき三ケ条があるとのことですが、肝心の第1号と第2号が欠落しているので、確かめようがありません。
四つのテストについても、かつて、ロータリアンのすべての行動に適用するのか、それとも職業活動にのみ適用するのかを巡って大論争に発展した経緯があります。私は、綱領に基づくロータリアンのすべての行動に適用すべきであると考えています。
ロータリーがどこまで政治問題に踏み込めるのかについても大いに議論する必要があります。過去の規定審議会でも、例えば原水爆禁止といった提案をすると、必ず、政治問題ということで、棚上げにされてきた経緯があります。世界社会奉仕はその国の貧しい政治形態がその前提となっている場合が多く、人口問題もその国の宗教と大きく関わっている場合があります。これらの問題を抜本的に解決しようと思えば、どの部分までが介入すべき範囲で、どの部分からは介入すべきでないといった線引きが、非常に難しいところです。
最後に、どの部分までが、規定審議会の議を経て立法化するのか、それともRI理事会の決定に委ねていいのかという問題があります。RI定款、細則、標準クラブ定款の改正を要する制定案については、簡単に理解できますが、問題は決議案です。規約によれば制定案以外のすべての案件が決議案とされていますが、その線引きは明確ではありませんし、たとえ規定審議会で採択された決議案でも、それをRI理事会が実行するか否かは、RI理事会の裁量に委ねられています。いくら素晴らしい決議案が採択されたとしても、予算措置がないとか、ロータリーに馴染まないという理由でRI理事会が実施しない場合は、如何ともし難いのが現状です。
その一方で、規定審議会の議を経ずに、多くのクラブに影響を与えるプロジェクトや機構改革をRI理事会決定で実施するケースもあります。直木氏が指摘した世界社会奉仕やインターアクトは、その微妙な線上にあるケースですし、最近では1997年から実施されたDLPにも同様のことが言えます。
この「杞憂論争」は37年前の論争ですが、現在に通じる大きな問題を孕んだ論争を、メディアが限られていた時代背景から、「ロータリーの友」を通じて四ケ月がかりで行ったことも含めて、非常に興味あるものと言わざるを得ません。
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