天職の意義
アーサー・フレデリック・シェルドンは「ロータリー哲学」の中で、次のように述べています。
事業を営んでいる人に「あなたは何のために働いているのですか」と問えば、95%の人は「お金を儲けるため」と答え、残りの5%の人が「職業を通じて社会に奉仕するため」と答えます。「お金を儲けるため」に仕事をするという考え方が、事業に失敗する大きな原因なのです。
この傾向は今日でも変わらないと思います。もっとも、同じ質問を医者や弁護士などの専門職業の人にすると、あからさまに「儲けるため」とは答えにくく、「困っている人を助けるため」という答えが返ってくるケースが多いようですが、内心は「儲けるため」と思っている人もかなりいるのではないでしょうか。本来は、専門職務の人たちが受けるべき感謝の念が、「診療報酬」とか「弁護士報酬」といった経済行為に変化した昨今の風潮から、錬金術の一つとして、専門職務に従事する人が増えることは嘆かわしいことです。
第一次産業と僅かな第二次産業しかなかった時代では、取引の手段は物々交換が原則でした。野菜と肉、魚と小麦とか双方の納得する品物が等価交換され、利潤という概念はありませんでした。産業革命が進んで第二次産業が盛んになるにつれて都市部に労働人口が集中し、金銭による取引が行われるようになった段階で、利潤という考えが生まれました。すなわち商売人は商品原価に利潤をつけて、相手に売ることによって、生計を営むようになったのです。売り手は高い利潤を願うでしょうし、買い手は少ない利潤を望むでしょう。そこで、ロータリーの職業奉仕では、先ず最初に、事業上の適正利潤とは何かと、利益の適正な再配分を説いているのです。
一方、歴史的に、医者や宗教家や法曹界などの専門職務の人たちは、相手がどのような身分の人であろうと、お金があろうがなかろうが、自らが持っている技術を生かした最善の努力を尽くして奉仕を提供することが義務とされてきました。その奉仕を受けた人が感謝の念を込めて謝礼を支払います。謝礼の高は問われませんし、金銭の支払が困難な人は品物や労務で感謝の意を表明することもあります。
これと同じ職業に対する考え方を、ビジネスを営んでいる人にも適用しようというのが、ロータリーの職業奉仕理念です。売る品物が何であろうと、提供するサービスが何であろうと、私たちは自らの職業を通じて社会に奉仕しているのです。社会に奉仕しているがゆえに、すべての職業は世に有用であり、貴賎はないのです。僅かしか社会に奉仕しなければ僅かな利益しか得られませんが、大きな奉仕をすれば、大きな利益が得られるのです。
それでもまだ、社会に奉仕するために職業があることを納得しない人のために、シェルドンは次のような例をあげています。
「仮に、全世界の靴屋が一箇所に集まって大会を開き、その場所に全世界の靴屋、靴職人、靴に関する全ての資料、製造機械が集まったと仮定します。そこに運悪く巨大地震が起こって全てが壊滅したとしたらどうなるでしょうか。今履いている靴が無くなれば、世界中の人は靴を履くことができなくなるのです。そうなって始めて、靴を売るという職業は、単に儲けるためではなくて、靴という商品を提供することで社会に奉仕しているのだということが納得できるのです。」
ロータリーでは職業のことをOccupationとは言わず、天職Vocationと表現しています。
聖書の翻訳の中で、この天職という言葉を初めて使ったマルチン・ルターは、「現世の内部における義務を、いかなる事情においても遂行することが、神に喜ばれる唯一の途であり、まさにこれのみが神の意思であり、したがって神によって各人に許されている天職は、神の前では全く等しい妥当性を持つ」と述べています。
ルターの考え方を受け継いだ17世紀後半のカルビィニズムの教義の中には、「社会の合理的形成のための機能としての隣人愛を形成するための天職労働」と、倫理の理論としての天職感が記載されています。
マックス・ウェーバーは天職について、「近代資本主義を指導する動機は、ただ単に利潤を追求することではなく、神によって与えられた天職という宗教的観念に密接に関わるものであり、人がこの天職に勤しむとき、結果として利益が生じるのである。天職としての経済活動に従事する義務こそが、資本主義文化の社会倫理を特徴づけている。」と述べています。つまり、私たちは、特定の具体的内容を持った自らの経済活動を、神によって自らに与えられた仕事であると自覚し、自らがこれを遂行する義務を負っていると感じると共に、他の人々に対しても、夫々の仕事に対して同様に感じることを要求しなければならないのです。更にウェーバーは、「自らの仕事を天職だと考えるのは経営者だけではなく、労働者も自らの仕事を天職だと考えるべきであり、この信念を持っている労働者は高い賃金を受けるべきである。」と述べています。
資本主義は、16世紀に急速に経済的発展を遂げたイギリス、フランス、オランダなどのヨーロッパの都市部のプロテスタントを背景に発達しました。すなわち宗教的と経済的の二つの要素を持っていたのですが、資本主義の精神は、宗教的理由によって形成された植民地では発展したのに、事業目的のために進出した植民地では発展しなかったという面白い結果が現れています。宗教的迫害によって祖国を追われたピューリタンが築き上げたアメリカのニューイングランドで、近代資本主義の精神が発展し、それがロータリーに天職という考え方を植えつけ、さらに職業奉仕という理念を作り上げたことは非常に興味深いことです。
近代資本主義の特徴は、精神面における良心に基づく営利の精神と、経済行為における合理的な経営に基づく資本利用と合理的な資本主義的労働組織であり、共に、シェルドンの職業奉仕理念の根底となるものです。
さて、天職とは生涯不変の職業のことを指すのでしょうか。構造的な経済不況や企業合併によって、止むを得ず職種を変更するケースも出てくると思います。ロータリーの天職の考え方から、職種を変更することは許されるのでしょうか。
17世紀の職業の世襲性を背景としたルターの考え方は、「神が個々の人間に与えた地位と制約から動かずにいることが、宗教的義務である。」ということなので、職業を変更することは受け容れられません。
しかし、アメリカのニューイングランドの主流を占めるピューリタニズムでは「天職が質と量の双方において、労働給付を上昇させ、公共の福祉に役立つので、人々が自らでこのような天職を選択することを認める」という解釈です。
ロータリーはこのピューリタニズムを背景にして生まれた組織なので、当然のことながら、新しく選択した職業も天職として認められると解釈すべきでしょう。ちなみにピューリタニズムでは「安定した天職」という表現を使っており、「安定した天職に付いていない人間のなす労働は不連続で、その場しのぎの労働でしかないので、彼の時間は労働に使用されるよりも、怠惰にのうちに多くが費やされるようになる。」と説いています。すなわち、日雇い労働者や今日はやりのフリーターは天職とは認めていないことになります。
(参考文献 企業の営利と倫理 マックス・ウェーバー研究 笠原俊彦著)
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