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炉辺談話(265)

震災日記より

 中越大地震で40名の尊い命が奪われました。地震国日本に住む宿命として、逃れることのできない運命だと判っていても、やりきれない気持ちで一杯です。亡くなられた犠牲者のご冥福を祈ると共に、一日も早く復興されますように心からお祈り申し上げます。

私たちが阪神大震災の洗礼を受けてから、もうすぐ10年を迎えようとしていますが、未だに街のあちこちに虫食いのような更地が広がっています。特に私が住む芦屋市では人口の5%に上る444名が死亡し、86%の住宅が被害を受けました。被災者の一人として、当時の日記の一部をご紹介したいと思います。

1995年1月17日

 夢うつつの中で激しい揺れを感じていた。すぐ止るはずの揺れが止らないばかりか、加速度的に強くなる。おかしいなと思いつつ三・四秒も経っただろうか、豪音と共に今まで経験したことのない激しい衝撃が全身を翻弄した。てっきり飛行機が墜落してきたのか、爆弾が落ちてきたのか、いずれにせよてっきり我が家を直撃した破壊活動が起ったと思った。地震がきたら机の下に潜れとか、トイレの中に逃れよとか、火の始末をしてとか教えられたが、そんなことは現実を知らない自称地震学者や評論家のたわごと、想像を越える強烈なGに身体とその周囲の空間が翻弄されて身動きすらままならず、ただ蒲団の中で翻弄されるままである。突然顔と頭に殴りつけられたような激しい傷みを感じて現実の世界に引き戻される。起き上がろうとするが、回り全体が激しく揺れ動いて立ち上がることなど出来るはずもなく、やっとのことで蒲団の上に座り込む姿勢を取るのが精一杯。顔に手をやると暗闇の中で色こそ分からないものの、べっとりと血糊の感触。その瞬間、激しい風圧と共に、とてつもない大きな物体が左頬をかすめて通過する気配を感じた。後で明るくなってから現場を見てぞっとした。和室天井に吊ってある木彫りの和風シャンデリアが私の頭を直撃し、びっくりして起上がった直後に倒れてきた箪笥が枕の半分を占領していた。もしシャンデリアの直撃で起き上がらなかったら、箪笥は間違いなく私の頭を直撃したに違いない。

 強い余震が引っ切りなしに続くなかで、家族に声をかけて無事を確認し、真っ暗闇の中を手探りで服を着ていると、日頃から東京に住んでいる妹に散々地震対策を聞かされている家内は、いつも自分の枕元に置いていた懐中電燈を持って照してくれた。

 リビング・ルームは家具や食器の残骸で足の踏み場もなく、おまけに額からの出血と鼻血と、ガラスの破片で切った指からの出血で、折角着た服も床も血だらけ。母は額と背中に、妻は腰から足にかけて打撲と内出血の青痣を作っていたが、幸い生命には異常はないようだ。
 シャンデリアと天井扇はかろうじてコードの張力で天井にぶら下がり、サイド・ボードと飾り食器棚は倒れて、永年かけてアメリカの骨董屋を巡って買い集めたティー・カップや飾り皿は一つ残らず形を止めていない。三十インチのテレビが転がり落ちて床に大きな凹みをつけている。
 玄関ホールに置いてあった調度品は景徳鎮の大壷を始め殆どのものが姿を止めておらず、ご自慢のウエストミンスターの大時計も五時四十六分を指したまま、錘と振子が切れて散乱していた。
 台所では食器棚と冷蔵庫が倒れ、大量の食器と食べ物が当たり一面に飛び散って足の踏み場もない。応接間では、大型の鋳銅のシャンデリアが見るも無残に二つに割れてぶらさがっており、クリスタル・グラスの飾りがあたり一面に散らかっている。相当重量のあるAVシステムが一メートルも水平移動しており、エネルギーの巨大さを物語っていた。
 三階の私の仕事部屋も惨憺たる有様。書庫やキャピネット類は全て倒れて、その間にコンピューターやコピー機、山ほどある工具類や無線機器が部屋一杯にそれも立体的に散らばっている。

 皮ジャンパーとスニーカーにヘルメット姿で外の様子を見に扉を開けた途端、前の二階建ての家が屋根を残しただけでわが家の門扉すれすれに崩れ落ちていることに気付き愕然とする。両隣の家は大きな亀裂が入ってはいるものの何とか原型を保っていたが、裏のアパートは一階部分が完全になくなっていて二階が五メートルほど北側に平行移動をして斜に転がっている。我が家を中心にした50メートルの半径で、見かけ上残っているのは、我が家を含めて10軒にも満たない。

 地鳴りを伴った余震の度に周囲の建物が崩れ落ちる音が聞こえ、その後に不気味なほどの静寂が続き、それが何回か繰り返されたころ、斜め後の二階建ての家が屋根だけになっており、その屋根の瓦の裂け目から救いを求める声が聞こえる。庭伝いに行こうするが倒れた塀に邪魔され、玄関から回ろうにも向いの家が崩れていて通られない。それでも僅かな隙間をみつけてやっとの思いで隣家に通じる路地までたどり着いたが、その路地は両側の家が倒壊して瓦礫の山と化していた。独力ではどうしようもないので、助っ人を探しに表通りに走った。
 表通りの被害は更にすざまじかった。殆ど全部の家が原型を止めておらず、倒れた電柱と両側から崩れた家が道路を塞ぎ、近所の人たちが屋根や窓を破ってその中にとじ込められた人を救出していた。

 今回の震災で何処でも見られたごくあたりまえの風景に、隣人同士の助け合いがあった。この様な大規模で同時多発型の災害では、警察や消防の初期活動は無力に等しい。隣近所の人に、普段なら単なる野次馬に過ぎなかったであろう通りがかりの人が協力して、それが大きな力となって、何人の人が救われたことだろう。そんな人たちと協力して、裏の家の三人を無事に助けだすことができた。

 二時間ほど近所の人と一緒に救出作業に没頭していたが、診療所のことが気になってバイクを飛ばして様子を見に行く。
 阪神芦屋駅前にある診療所の外壁は殆ど崩れ落ちて見る影もなく、縁だけが辛うじて残った自動ドアをこじ開けて入った内部の被害は更にすざまじかった。隔壁は崩れ落ち、高価な医療機器が醜く変形して床に叩きつけられている。とりあえず、カルテをかき集めて、袋に詰めて帰宅する。

 道すがら近所の無人になっている家のテレビが映っていることに気付いて配電盤を調べるとブレーカーが切れている。恐る恐るスイッチを入れると電燈が一斉についた。電話、水道、ガスは駄目だが、電気があれば何とかなる。
 家の前で斜向いの主人と鉢合せする。誰か人工呼吸が出来る人を知りませんかという質問に、私は医者ですよと言うと、始めてそれを思いだす始末。余りのショックに気が動転していたのだろう。私より少し年上の奥様はショックによる急性心不全で、既に死亡しており、無駄なことを承知で心臓マッサージや人工呼吸を試みたが、息を吹き返す気配は無かった。この不幸な事件が、医者としての本能を蘇らせてくれた。

 S小学校の教室に設けられた仮設の救護所は、さながら最前線に設けられた野戦病院のごとき修羅場と化していた。遺体と重傷者が床を埋めつくし、大勢の怪我人が長い列を作って順番を待っていた。地本の数人の医師と共に応急手当をするものの、薬品も衛生材料も底を盡き疲労困憊に達しかけたころ、揃いの黄色のブレザー姿も頼もしい大阪の救急センターの医師や看護婦の大部隊が到着した。
 若く活動的で更にトレーニングを積んだ応援部隊に後をまかせて、私たちは屍体検案と死亡診断書の作成に回った。死亡診断書がなければ遺体を家族に引き渡すことができないので、黙々とその作業を続けているものの、検屍して書類を作成する速度と新たに遺体が運び込まれてくる速度に差がありすぎるため、遺体安置所になっている教室は次々と満杯になっていく。
 警察が確認した住所氏名を基に、頚動脈を触れ瞳孔反射を調べて死亡を確認した上で書類を作成するという何とも遣りきれない作業が延々と続いた。殆どが全身打撲や圧迫による窒息死であり、鬱血によって顔が赤黒く腫れ上がっていて名前を見て始めて友人や患者であることに驚くことも再三あった。

 やっと一区切りついたのは八時すぎだっただろうか。今度は、警察学校に安置されている遺体の検案が手つかずなので行ってほしいとの要請を受けて、K先生をバイクの後に乗せて出発。道路が各所で寸断されていて、おまけに陥没や亀裂がいたるところにあるのでそれを避けたり、迂回したりして、やっとの思いで警察学校に到着した。停電のため真っ暗闇の中を警官の懐中電燈に導かれて入口わきの小部屋と武道場に所狭しと並べられた百体以上の遺体の検屍を始めた。警官のライトだけが頼りの検屍は遅々として進まず、その上寒さが身に滲みた。作業が何とか終わったのは午前1時過ぎ。今日一日で60通を越える屍体検案書と死亡診断書を書いたことになる。

 帰宅して、初めて空腹を感じる。そう言えば朝から何も食べていない。エアコンをつけたいが、室外機の状態が分らないので今夜は辛抱することにして、ペットボトルの水を電子レンジで沸かして、即席ラーメンを作る。「ゴー」という地鳴りと共にひっきりなしに訪れる余震に脅えながら、一階のリビングに蒲団を敷き詰めて雑魚寝をするが、生々しい映像を送り続けるテレビに、寝たり起きたりの状態。

追記
 阪神大震災の被災者として、中越大地震の状況が気がかりになって、テレビに釘付けになっている毎日です。皆さま方も多分同じ心境だと思います。
 震源地が大都市の直下型か比較的過疎地かの差によって、死傷者の数こそ大きな差があるものの、深い亀裂が入って寸断された道路や、山崩れの状況は、阪神とは比べ物にならない位、ひどい状況です。
 どこから手をつけたらよいのか判らない状況の中で、被災地のロータリアンは精一杯頑張っておられることと思います。このような災害から正常な状態に復帰するまでには、それぞれのステージ毎の住民のニーズに従ったきめ細かいプロジェクトが必要ですし、気が遠くなるような長い年月がかかります。そんな被災者の心境を代弁するつもりで、敢えて10年前の日記をご披露した次第です。
 2560地区のロータリアンの皆さまのご活躍に、心からエールを送ると共に、全国のロータリアンの災害復興に対するご援助を宜しくお願い申し上げます。