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炉辺談話(267)

診療所再興記

 阪神・淡路大震災で阪神芦屋駅横の貸ビルにあった私の眼科診療所が全壊しました。醜く傾いたビルの壁面の裂け目から、むき出しになった電車の線路と寒い冬空が見え隠れしていました。
長い間、芦屋川西部で住宅を併設した診療所を開設していたのですが、住居と職場を分離したいと考えて、5年前にここに移転したばかりだっただけに、移転を機会に新調したほとんどの医療器械を失い、それらに掛けていた高額な火災保険は何の役にも立たなかったことはかなりの痛手でした。当時、阪神間を地震が襲うなどということを予測する人は誰もいませんでしたから、火災保険に地震特約をつけるという発想はまったく浮かびませんでした。全国から寄せられた義捐金は見舞金や補助金の名目で、全半壊した建物の所有者に渡されただけで、テナントとして入っている我々には、結局ビタ一文も分配されませんでした。
私が以前、診療所を構えていたせいで、その後も大勢の患者が通ってきた芦屋川西地区が芦屋市内で最も被害の大きい地区だったため、40名以上の患者が犠牲者となったことは、悲しい出来事でした。

診療所に通勤する代わりに、地震の朝から何とはなしに毎日出勤するくせがついてしまった災害本部を拠点にして、巡回医療や保健活動が結構忙しく、無料の医療ボランティア活動が当然とされた周囲の状況から、積極的に診療所を再建する意欲をほとんど失いかけてきた頃、親友のY氏が、以前の診療所から200メートルほど東よりの自分の所有するビルの一室を提供するから、診療を再開してはどうかと勧めてくれました。地震の直後のこととて、市内の倒壊を免れたビルに空き室が残っていること自体が奇跡に近い状態であり、それを破格な条件で貸していただけるということなので、早速お願いすることにしました。

ただし幾つかの大きな問題がありました。先ず、広さが10坪しかないため、満足な診療体制が取れないことです。そこで、芦屋市内のインフラが整備されて本格的な診療所が見つかるまでの暫定的な場所にすることにしました。医療器械をすべて揃えようとすれば莫大な費用がかかります。リースを利用しても20年以上にしなければ収支のバランスが取れず、そうすれば80過ぎまで診療を続けなければなりません。そこで苦肉の策として選んだ方法が、リース上がりの機器の再リースです。型遅れさえ辛抱すれば十分の一の負担でかなりの種類の機器を導入することができますし、10坪の広さに収まる機器を探すことも可能です。

ということで、田中眼科を復興しようという第一歩がスタートして、内装工事の打ち合わせに入ったとたん、新たな問題が起こってきました。1月の下旬から、芦屋市は、どうしても避難所に入りきれない市民を収容するために、大型フェリーをチャーターして、港湾の機能が何とか残っている尼崎港に停泊させることになりました。乗船希望者を募ったところ圧倒的に老人が多かったために、どうしても医師を乗船させる必要があるのに、誰も受け手がないので、何とか頼めないかとの依頼が舞い込んできました。2月の中旬からは専任の医師を契約しているので、それまでの1週間を何とかしてもらえないかということだったので、ちょうど診療所の内装期間なので快く引き受けることにしました。

洋上の1週間は快適そのものでした。老人といっても、ほとんどの人は元気な老人ですから、せいぜい初期の風邪の診察と血圧測定くらいしか仕事はありません。たまに訪れる極めて周期の長い余震の揺れを除けば、暖房もよく効き、風呂、電話、食事と何の不自由もありません。こういう快適な施設を市民に提供しているにもかかわらず、これを十分知らせる手段がなかったためか、結果的にはこれを利用した市民が少なかったことは残念でした。

1週間の突貫作業で2月中旬から診療を再開しましたが、水道なし、ガスなし、おまけに訪れる患者も数名しかなく、市内の至る所で行われている巡回医療はすべて無料なので、まさか個人の診療所で料金を取るわけにもいかず、結局3月末までは、午前中のみ診療、診療費は自己負担なしの保険請求のみとし、午後は巡回診療や保健相談にボランティアとして参加することにしました。

水道とガスが復旧したのが3月末、患者が少しずつ戻り始めたので4月からは全日診療に戻しましたが、僅か10坪の診療所が手狭になる日は、一向に訪れそうもありませんでした。診療所前の道は、他府県ナンバーの車が満ち溢れてまったく動かないのに、道の両側には倒壊家屋の廃材が山のように積まれ、斜め前の商店街のアーケドは傾いて落ちたままでまったく手付かずの状態です。瓦礫の処理費用を誰が負担するかで、行政と住民が揉め、倒壊家屋の撤去は遅々として進まず、街の中に人が戻ってくる気配も、生活が営まれている気配も一向にありません。現実に、芦屋市の激震地区であった中央地区と西地区の都市計画が完了して、住宅が建ち始めたのは2002年のことです。

さて、そんな4月の末に、地震をはるかに超える恐ろしい出来事が、私を直撃しました。それはガバナーの指名を受けたことです。例年ならば前年の10月頃には候補者の名前が囁かれ始めるのですが、それがないままに年が暮れ、新年早々に大地震が起こったため、少なくとも被災地のロータリアンの脳裏からはガバナーの指名のことなど完全に消えていたことだけは間違いありません。

いろいろな経緯の末、結果としてガバナーを受けることになりましたが、今となって考えれば、震災によって異常に高揚した精神状態のなせる業としか言いようがありません。

ガバナーを務めた1996-97年度は、代診の医師を入れることでしのぎましたが、それ以後はロータリーの所用が不定期に起こることが多く、不定期の代診もなかなか見つからず、止む無く休診する機会が多くなってきました。そんなこんなで、本格的に診療所を再興する予定は徐々に伸びて、やっと阪神芦屋駅前の一等地に新しい診療所を構えることができたのは、震災4年後の1999年のことでした。