ハート・アタック
月日の流れるのは早いもので、2003年10月6日付けで炉辺談話199「癌騒動記」を書いてから、1年少ししか経っていないのに、またその続編を書かなければならなくなりました。と言っても、前回ご披露した前立腺癌が発症したわけではなく、11月26日の未明に、突如として心筋梗塞の発作に襲われて、生死の間をさまよいました。どうやら今回も悪運が強かったらしく、黄泉の国の入り口まで行ったものの、閻魔さまがどうしても中に入れてくれず、この世に戻されてしまいました。病気にまつわる鬱陶しい話で恐縮ですが、周りから10歳は若く見えるとおだてられ、本人もその気になって、不摂生に振舞っていたのが祟り、実はあちらもこちらもがたがたになって、年齢相応の変化が着実に進んでいたことを、身をもって体験しました。
11月26日から広島でロータリー研究会が始まります。この会合は毎年11月か12月に全国のロータリーのシニア・リーダー(パストガバナーやガバナー)を対象に開かれる勉強会です。私は27日の本会議で規定審議会の報告をしなければならないので、11月26日の昼過ぎの新幹線で広島に行くことにして、早々に旅行の準備を終えて、夕刻から開催された伊丹クラブのサンクス・ギビング・パーティに参加しました。
明日の広島行きに備えて早めに帰宅して寝床に入りましたが、午前2時頃、猛烈な胃の痛みで目が覚めました。てっきり食中毒か何かと思ってトイレにいって思い切り吐きましたが、痛みはますますひどくなり、その痛みが徐々に胸の痛みと胸苦しさに変わってきました。実は8年前にストレスによる異型狭心症を起こしてH大学病院で精密検査を受けたことがあるので、ひょっとして、狭心症の再発かと思ってニトログリセリンを舌下に含みましたが、一向に胸の痛みは止まりません。脈は不整でめちゃめちゃの状態です。どう考えても狭心症の発作ではなく、むしろ心筋梗塞が疑われます。もしも心筋梗塞ならば一刻を争って手術を受ける必要がありますし、それも完全な梗塞状態になったら5-10分が生死を分けることになります。
医者としてある程度の知識があるので、とっさに、救急医療体制を含めていろいろのことが頭に浮かんできましたが、総合的に判断して、直接H大学病院へ行くのが最善であると決断してタクシーを呼びました。もし救急車を呼んで市内の中途半端な救急施設に送られれば、無駄な時間を費やすことになり、目的地に到着するまでに時間切れになる可能性があります。ただし、タクシーの中で人事不省になる可能性もあり、まさに確率50%の大博打といったところですが、みごとにその賭けに勝って、何とか途中で意識を失うことなく大学病院に到着することができました。このH大学病院は各科の専門医を必ず当直に置いていることでも定評があり、私も開業していた頃はよく利用させてもらいました。本来ならば医療機関の紹介状が必要なのですが、6年前にここに罹っていた当時の循環器科の診察券を出して、私自身が医師であることを説明したところ、快く受け付けてくれました。
当直医師による心電図や心エコー検査の結果、かなり強度の心筋梗塞であることが判明しましたので、専門スタッフを召集して直ちに心臓カテーテル検査が行われました。その結果右冠状動脈99%梗塞、左冠状動脈95%梗塞が判明したので、取り合えず99%梗塞をしている右冠状動脈にステント2個を入れることになりました。右手首の動脈を経由して冠状動脈にステントを挿入するインターベーションは患者にとっても非常に負担が少なく、今まで各所で血流が途絶えていた冠状動脈の狭窄部が見る見るうちに正常な太さに戻る模様が、モニター越しに観察することができます。私が医師であることもあって、詳しい説明付でステント挿入が進められましたが、一般の方は見ないほうが無難でしょう。後からの回顧談なので、理性的に書いていますが、実の所は、余りの胸の痛みと苦しみに、途切れ途切れの意識の中で、手術が進められていったというのが真相です。
無事に手術を終えてCCUに戻ってきたとたん、強い心室細動と心房細動が同時に起こって大騒動になりました。電気ショックをする直前になって心臓の機能が正常にもどってきたとのことですが、当の本人は気を失っており、この間の記憶はまったくなく「もう少し眠らせて・・・」という心地よい疲労感の中から、現実の世界に戻ってきたような感じでした。気を失っている状態では、他人からは苦しんでいるように見えても、本人は至って安らかな気分でいることを身を持って実感しました。
2日間は絶対安静でCCUに閉じ込められた後、循環器科の一般病棟に移されて、徐々にリハビリが開始されましたが、塩分の殆どない食事には閉口しました。
家からノート・パソコンを取り寄せて、メールをチェックしようとしたものの、病院のIT環境が劣悪で、繋がったり繋がらなかったりで、何とか10通ほどのメールを送っただけで、結局受信メールの閲覧はあきらめざるを得ませんでした。
2週間後の12月10日に95%梗塞している左冠状動脈のインターベーションをすることになったので、その前日の12月9日に、無理を言って、メール・チェックをするために3時間ほど帰宅をさせてもらいました。帰宅してマイコンのスイッチを入れると、驚くなかれ2,000通を超えるメールが入っていました。ウイルス・メールやジャンク・メールは自動的にゴミ箱行きに設定しているものの、それをかいくぐった受信メールだけでも500通ほどはあり、その整理に1時間以上もかかってしまいました。心筋梗塞直前に作っておいたロータリの源流の「炉辺談話」をアップ・ロードして、急いで病院に帰りました。
12月10日、朝9時から左冠状動脈のインターベーションが始まりました。2本目のステントが入った段階で、本流の血流量が大幅に増えたことがきっかけとなって、ステント装着部至近の小血管に一時的な梗塞が起こって、苦しい思いをしましたが、血管拡張剤の使用によって2日ほどで治まりました。
心筋梗塞が一段落したので、心機能のチェックやリハビリと平行して、12月13日から糖尿病病室に移転して、長く放置していた糖尿病の抜本的な検査と治療をすることになりました。空腹時血糖が300もあるのに、アルブミン値が若干高いだけで、腎機能はほぼ正常、眼底にもまったく変化がなかったこと自体が奇跡にも近く、今後心を入れ替えて、インシュリン療法と食養生をする決心をしましたが、果たしていつまで続くでしょうか。大ジョッキになみなみと注がれた生ビールを思い浮かべながら、無糖の缶コーヒーやウーロン茶で我慢をしています。
この頃から、一時帰宅が許されましたので、短時間帰宅しては、ホーム・ページのアップロードとメールのチェックをしました。なにしろ、一日放置すると200通近いメールが溜まるので大変です。
12月23日、無事に退院しました。4週間ぶりで我が家に帰り着くと、満開だった菊が枯れて、固い蕾だった庭の山茶花が真っ赤に咲き誇っているのが印象的でした。1月一杯は少しペースを落としてのんびり過ごし、2月からは以前の生活に全面的に復帰するつもりです。
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