カーネル・サンダース
全世界の主要な都市に必ずと言っていいほどあるケンタッキー・フライド・チキンの店頭では、夏冬通じて白いモーニングを着て、眼鏡をかけた、でっぷり太った白髪のカーネル・サンダースが客を迎えてくれます。この眼鏡は本物の度入りの老眼鏡なので、眼鏡を忘れた人には便利らしく、無断で拝借する人が後を絶たないそうです。
1985年の阪神優勝にまつわるカーネル・サンダースの呪いの話は有名です。優勝に熱狂した余り、阪神フアンがバースに良く似たカーネル人形を胴上げして、道頓堀川に落としてしまいました。いつものごとき熱狂阪神ファンの暴挙ですが、川へ投げ捨てられたカーネル人形の呪いが、阪神にふりかかって、それ以来最下位の常連となり、実に二十年近くの間、優勝から遠ざかることになったという話です。
彼にフリーメーソンの烙印を押す人も多く、その証拠に、このカーネル人形の左の襟に、フリーメーソンのバッチが着いていると言うのですが、目を凝らして良く見ると、それはフリーメーソンのバッチではなく、紛れもないロータリーのエンブレムなのです。そうです。彼はれっきとしたロータリアンなのです。
ハーランド・サンダースHarland Sanders は1890年9月9日にインディアナ州南部のヘンリービルで生まれました。6歳の時に父親が亡くなり、母親が工場に働きにでたため、3歳の弟と生まれたばかりの妹の面倒をみなければなりませんでした。母親の代わりに三度の食事の支度をしたために料理の腕前をあげたことが、後の彼の運命に重要な影響を与えることになったのです。6歳の時に一人で見事なパンを焼き上げたことが、彼の少年時代の有名な逸話として残っています。
小学校に通いながら、10歳から近所の農場で働き始め、中学を中退した後、16歳の時に年齢を偽って軍隊に入りましたが、これが露見したため2ケ月で除隊になります。その後サザン・パシフィック鉄道に入社して、修理工、ボイラー係、機関助手、保線係を務めましたが、19歳の時に解雇され、ノーフォーク&ウエスタン鉄道、ペンシルバニア鉄道と渡り歩いた後に、保険会社の外交員になります。
1912年22歳の時に、インディアナ州ジェファーソンビルに転居し、フェリーボートの経営に携わり、その後、アセチレンガスのランプ販売、タイヤのセールスを経て、1919年、29歳でケンタッキー州ニコラスビルでガソリン・スタンドを経営します。このガソリン・スタンドは徹底したサービスによって大いに繁盛して、やっと安定した生活を送ることができるようになりました。なお、1920年、29歳の時に、ジェファーソンビル・ロータリークラブのチャーターメンバーとして入会します。
1930年にケンタッキー州コービンにガソリン・スタンドを移転したサンダースは、コービン・ロータリークラブに移籍しました。「自動車には良質のガソリンが必要なのと同じように、ドライバーにも良質な食事が必要である」と考えたサンダースは、ガソリン・スタンドに併設して6席の「サンダース・カフェ」を開店し、手製のフライド・チキンを出しますが、これが美味しいと大評判になって、長蛇の列ができるほど繁盛しました。そこでサンダースは、レストラン事業に専念するために、ガソリン・スタンドを売却して、道の反対側に142席の本格的なレストランを建設して、「ケンタッキー・フライド・チキン」の商標で、大々的なレストラン経営にのりだします。
1935年、ケンタッキー州知事から、おいしいフライド・チキンを提供した功績をたたえてカーネルColonel 陸軍大佐の名誉称号を受けました。これが、カーネルというニックネームがついた由来です。
カーネルがビジネスの基本にしたのは、次の四つのルールだったと記載されています。
1. そのビジネスに嘘偽りはないか
2. そのビジネスは関係するすべての人に公正か
3. そのビジネスは良好な人間関係を作っていくものか
4. そのビジネスは関係するすべての人にとって有益なものか
すなわちカーネルは、ロータリーの四つのテストに照らしながら事業を営んでいたわけです。カーネルがロータリーに入会したのは、この四つのテストに魅せられたからだという記述がありますが、彼がロータリーに入会した1920年には、まだ四つのテストはできていませんので、この記述は明らかな間違いです。
1952年、高速道路が完成して、コービンの道路事情が急変して、あまり自動車が来なくなったのを機会に、レストランの廃業を決意しますが、フライド・チキンの製造方法を教えてフランチャイズ化する方法を思いつき、ユタ州のハーマンズ・カフェで第一号店の契約を取ることに成功し、その後10年間に全米の600のレストランと契約を結ぶことができました。
フランチャイズ事業の契約内容は、@清潔なレストランであること。A圧力釜の性能の差で味が変わるのを防ぐため、圧力釜とタイマーをセットしたものを35ドルで購入すること。Bフライド・チキン一ピース当たり4セントのロイアリティを支払うこと。Cスパイスの中身は秘密にして調合済みのものをロイアリティに含めて渡すことでした。
このフランチャイズ事業が評判になってテレビに出演依頼がきました。冬だというのに白いモーニングを着て出演したのが大うけして、これがその後、カーネル人形として、ケンタッキー・フライド・チキンのトレード・マークとなりました。
1960年に、本拠地を交通の便のよいルイビスに移転し、同時にシェルビービル・ロータリークラブに移籍しました。1964年、74歳の時に、200万ドルでジョン・ブラウンに権利を売ってリタイアしましたが、その後ナビスコを経てペプシコーラに売却されたときの価格は8億4000万ドルと言われています。
コーネルがフランチャイズの仕事で飛び回った距離は40万キロ、地球を10週する距離でした。四つのテストを実行して、二度のビジネスを成功させた偉大なロータリアン、カーネル・サンダースは1980年、90歳で白血病のため逝去しました。
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