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炉辺談話(312)

Service, not selfの真意

 今年度のRIのテーマが Service above self であることから、このテーマの原型とされている Service, not self の真意を紹介するために、予てから翻訳していた、ベンジャミン・フランク・コリンズの「How it is done in Minneapolis」というスピーチ原稿を公開して、その中で述べられている Service, not self という言葉を紹介しました。その Service, not self という言葉の解釈が今まで伝えられてきた解釈とはまったく違うために、戸惑いと混乱が起こっているようですので、事の顛末を整理してみたいと思います。

日本におけるロータリーの過去の指導者たちの大きな過ちの一つは、思想や理念や出来事を当事者が直接書き綴った一次文献を読むことを怠って、後世の誰かが訳して解説を加えた二次乃至は数次文献や、ひどい例では誰かが書いた文章や、語った言葉を、さも自分の意見のように説いてきたことにあります。私たちが学術論文を書く場合には、必ず参考文献を記載した上で引用するのが常識でしたが、ロータリーではそれさえ守られないのが通例でした。他人の説を人に語るときには、必ず出典を明らかにする必要があります。その出典が二次資料ならば、一次資料にさかのぼって、その内容が正確かどうかを調べた上でなければ、人に語る資格はありません。

「Service, not self」の解釈を巡る今回の混乱の元凶は Oren Arnold が書いた「Golden Strand」という本にもあります。この本にはフランク・コリンズの職業を弁護士と書いてありますが実際には果物卸売商です。また、「この演説はアーサー・シェルドンの有名な宣言 He profits most who serves best を最初に聞いてから、僅か数分以内になされたものであった。」と記載されていますが、実際はシェルドンの原稿が読み上げられた前日、1911年8月22日に行われたコロンビア川をさかのぼる船旅における即興演説です。

さて、Service, not self という言葉の持つ意味について、「Golden Strand」は次のように記述しています。

Service, not self そう、何れにせよ、自己の存在を考えることが、まったく悪いわけではない。例えば、人間は自尊心を持つべきだし、自分自身を守らなければならない。もし自分自身が零落すれば、奉仕することなどできるわけはない。従って、Not Selfが、何を意味しているかを理解することは、まったく難解である。自分自身を二の次にしておくのは良いとしても、それを完全に否定するのはどうかと思われた。「よし、それなら Service Above Self にしたらどうだろうか?」 誰かが意気揚々と、適切な提案をした。「それは良いね!」 別の人が叫んだ。たぶんそれは、販売の専門家アーサー・シェルドンの興奮した声であったに違いない。「それはよい方針であり、すべてを言い尽くしている。」 明らかに、彼の発言は正しく、その提案は満場一致をもって採択された。

この本には、Service, not self は自己を完全に否定した考え方であると述べていますが、コリンズのスピーチの内容は決してそのようなものではありませんし、Service above self に変えたのはシェルドンかも知れないと言っていますが、それを証明する資料は残っていません。
このように、「Golden Strand」に記載されている Service, not self に関する一連の記載を読むと、この作者はひょっとしたらフランク・コリンズのスピーチ原稿を読まずに、伝聞によって得た知識を記載したのではないか思われるふしが各所に見られます。この本は初期ロータリーを知るための読み物としては非常に良い本である一方、ロータリー史の教科書としては問題の多い本だといえます。

日本の過去の指導者たちのほとんどは、この「Golden Strand」を利用してロータリーを説いてきたという経緯があります。特に千種会という団体では、「ロータリー発生史」の内容はこの「Golden Strand」がそっくりそのまま語られています。私が研究用資料として1998年に「Golden Strand」の邦訳をした際、この事実に気づきびっくりいたしました。なお、かつては私もこの千種会に属していた関係上、私が収集した、このコリンズのスピーチ原稿を始め、1910年、1911年、1913年のシェルドンのスピーチ原稿、シカゴ大学のRotary?、ビビアン・カーターのThe meaning of Rotaryなどの貴重な一次文献のすべてを千種会に提供しましたが、それらが活用されることなく現在に至っていることを申し添えます。

さて、Service, not self という言葉が説明されているフランク・コリンズの「How it is done in Minneapolis」というスピーチ原稿は、1911年11月の発行された「The National Rotarian Vol.U、No.1」に収められており、私が2002年1月に One Rotary Center の資料室で見つけ出して翻訳したものが、多分、本邦初公開ではないかと思われます。
Service, not self を解説するに当たっても、殆どの人はコリンズのスピーチ原稿の存在を知らずに、従ってコリンズのスピーチ原稿を読まずに、「Golden Strand」の内容をそのまま語るものですから、みな一様に「コリンズの職業は弁護士。Service, not self とは自己を完全に否定した高次元の考え方。Service, not self を Service above self に変えたのはシェルドン。」だと説いてきたわけです。

ちょうど、伝言ゲームで途中の一人が間違えると、最後にはとんでもない結論に至るのと同じです。ゲームならばともかく、ロータリーの理念を伝えようとするならば、伝聞に頼らずに、必ず一次文献までフィード・バックして確かめる努力が必要です。
「Golden Strand」に記載されている内容を、その出典を明らかにした上でそのまま紹介するのならばまだご愛嬌ですが、一次文献の存在を知ってか知らずか、自分の思い込みから、これを高い宗教的次元のモットーだと間違った解説をすると、この言葉がとんでもない方向に迷走していく結果になります。
百年一日の如く、語り部によって語り継がれてきたロータリーの歴史や理念も、情報の収集と解析能力が進むことによって、数多くの新しい再発見が加わってきます。こういった新しい発見に科学的な検証を加えて、間違って語り継がれてきた事柄にどんどん修正を加えていかなければ、ロータリーの進歩はありません。

或る指導的な立場にあるロータリアンは、未だにコリンズは弁護士であり、 Service, not self は中世キリスト教神学の思想以外の何者でもない優れた宗教的色彩の強いモットーであって、自分を否定して、宇宙を支配する神の秩序体系に帰依することであると述べていますが、コリンズは自らのスピーチで、自分の職業は果物卸売商であると述べており、さらに、彼の原稿からは、宗教的な高邁な思想を感じとることはできません。
以下、このスピーチ原稿の内容の概略を紹介します。

ロータリークラブの組織では、なすべきことはただ一つであり、それを正しく始めなければなりません。正しく始めるためには、ただ一つの方法しかありません。自らの利益が得られるかもしれないと思ってロータリーに入ってくる人たちは、間違った部類の人たちです。それはロータリーではありません。ミネアポリス・クラブによって採用され、当初から定着している原則はService, not selfです。

「利他のためにロータリーに入るべきであり、その原則をミネアポリス・クラブではService, not selfという言葉で表している」という説明であり、入会の動機を戒めるこの言葉の中に高い宗教的な要素が含まれているとは感じ取られません。

月に1回ではなく、毎週1回の例会を開催している。
外部からの卓話者を呼ばずに会員が実施している。
友愛委員会の活動として、昼食例会のチケットを会員の事業所で発売し、会員がそれを買いに行くことによって会員間の人間関係を緊密にすることができるし、新入会員の世話をしたり、会員から提供された食品を集めてディナー会を開催する活動を実施している。
ロータリアン同士の相互取引が原則であるが、ロータリアンの店だけの取引では限界があるので、積極的にロータリアン外の人とも取引をすべきである。
他の会員との相互扶助も大切である。ロータリアンの紹介によって大きな取引ができた不動産業者の実例。
ミネアポリス・クラブの会員同士の友情は素晴らしい。何か困ったことがあれば、ミネアポリス・クラブに行きなさい。ミネアポリス・クラブを象徴する言葉こそ、Service, not selfである。

以上の内容が、コリンズが語ったスピーチ原稿のあらましです。
この中から、強い宗教的色彩も、中世キリスト教神学の思想を感じ取れるはずもありません。クラブ会員の親睦の大切さを説き、さらにロータリアン同士の物質的相互扶助の大切さを説きながら、ロータリアン以外の人たちとの取引も勧めるという矛盾に満ちた内容であり、なぜ、Service, not self がミネアポリス・クラブに定着している原則なのかが理解できません。

強いてこじつけた解釈をすれば、今まで、会員同士で行ってきた物質的相互扶助を、会員外に広げることによって、それを利他の心と説いたのかも知れません。自らの利益だけを考えずに、他人に奉仕する意味で Service, not self という言葉を作ったとすれば、この言葉は職業奉仕のモットーである He profits most who serves best を補完する言葉であり、当時の年次大会の雰囲気から考えると、そう考えるのが当然かも知れません。
何れにせよ、Service, not self という言葉は、人道主義的活動を意味する言葉としてその後作られた Service above self とはまったく別次元の言葉だということは間違いありませんし、Service, not self が自己滅却という強い宗教的色彩を帯びた言葉であり、それを緩めた言葉が Service above self であるという解釈は間違った解釈です。なお、その Service above self という言葉が、何時、誰によって作られたのかは不明です。

1915年にガイ・ガンデカーによって書かれ、1916年の年次大会で参加者全員に配布された「A talking knowledge of Rotary」には、He profits most who serves best と共に Service, not self という言葉がそのまま引用されていますが、その内容はこれらの二つの言葉の解析ではなく、ガイ・ガンディカーのロータリー感が述べられているに過ぎません。
1921年のThe Rotarianのコリンズの追悼記事には、Service, not self ではなく 「コリンズが作った Service above self というモットー」という表現が使われているのは不思議なことです。
面白いことには、1921年の年次大会には、結果的に取り下げになったものの「現在ロータリー・モットーとして使われている Service, not self、Service above self、Service before self を廃止して He profits most who serves best のみにする」という提案がでていますから、当時はいろいろな思いを込めて、これらの言葉が渾然と使用されていたものと思われます。
1923年には決議23-34において、ロータリーの奉仕理念が確定し、ロータリーの哲学が Service above self に、実践倫理の原則が He profits most who serves best と定められ、1950年、決議50-11によってこの二つの言葉はロータリー・モットーとして正式に採択されるという経過をたどるわけです。
現在、Service above self は「超我の奉仕 他人のことを思いやり、他人のために尽くすこと」(チェスレー・ペリーの解釈)と訳されています。

さて、Service, not self の解釈がこのような結論に至ったことをよしとしない人たちは、私の翻訳が出所不明の怪しげな日本語訳であり、誤訳と誤解の連続であると主張しているようです。しかし、よくよくその主張を聞けば、問題は翻訳ではなく、今まで自分たちがさも本当らしく主張してきた話が、根本から崩れ去ることに対する恐怖や不安であるような気がします。
新しく発見された事実を事実として謙虚に受け止めることができないことは極めて残念なことです。日本人がディベートが不得意である原因として、自説を曲げたり、討論に負けることが、あたかも本人の人格が否定されたことと同じように受け止めることだと言われています。

私の翻訳が完全であると主張する気はありませんし、英語は私にとって難解この上ない外国語であることは間違いのない事実です。
完全な翻訳は存在しません。米語を日本語に翻訳する場合、ネーティブ・アメリカンでない限り、その言葉の持つ意味を100%理解することは不可能ですし、日本人でその能力を持っている人は限られているはずです。ネーティブ・アメリカンに近い能力を持っていたとしても、それを日本語に置き換えようとすれば、さらに高い日本語能力が必要になりますし、日本語のような多くの言い回しがある言語では、翻訳者の主観によってその表現は大きく異なってきます。

原文の持つ意味を、例え直訳になってもいいからなるべく正確に伝えようという、RIの公式文献の翻訳が、まるで意味のわからない日本語になっているのも、そのあたりの事情を物語っているのではないでしょうか。
私は、なるべく平易な日本語を目指して翻訳しているつもりですが、それに飽き足りない方は、是非、原文をお読みになることをお勧めします。私が翻訳した文献の原文は、すべて「源流アーカイブス」に収録していますのでご利用ください。