私たちの生きる目的は何でしょうか?
学ぶことです。
何を学ぶために生きているのでしょうか?
学ばなければならない唯一のことは、どうすれば自己にとらわれないようになるかということです。私たちはそれを学ばなければなりません。学ばないわけにはいきません。ひとりでに学ぶことができなければ、強制されるでしょう。遅かれ早かれ、私たちは自己と決別せざるをえません。最後の日を迎えるまで、自己にとらわれているかもしれません。あるいは自然に、徐々に、そうです、喜びをもって、自己と決別できるかもしれません。
18歳のとき、あなたは100パーセント、エゴそのものです。そうではありませんでしたか? 単に自己中心的であるばかりでなく、徹頭徹尾自分のことだけ考えていました。トーマス・カーライルによると、18歳で、人は嫌味の極致に達する、ということです。
それから、仕事に就きます。そして、あなたの自我が屈服します。次いで、結婚します。結婚に伴い、あなたの自我はまた屈服します。そして幸い子供に恵まれましたら、そのときまでには、あの100パーセントのエゴで残っているものはほとんどないでしょう。自我との決別はこのように徐々に、自然に、喜びを伴いながら来ますので、あなたは自分の内部で何が進行しているかほとんど気付かないでしょう。それぞれの経験は、待ち望まれ、言い表しがたい喜びをもって期待されたものです。これは犠牲でしょうか? そうです、犠牲と呼ばれてきたかもしれません。しかし、あなたは、犠牲を払うという栄誉のために懸命に闘ってきたことでしょう。
これが極く自然な学び方です。あなたの母親も同じように学んできました。母親の人生は、あなたのよく知っている「Service, not self」という主義を最もよく表わしています。最後の日を迎えたとき、屈服しなければならないものは、彼女にほとんど残っていません。彼女には1パーセントのエゴしかありません。その1パーセントは、揺らぎながら消え去ります。しかし99パーセントは、これまで生きてきましたし、現在も生きています。そして、これからも生き続けていくでしょう。
私たちの生きる目的は何でしょうか?
学ぶことです。
何を学ぶのですか?
人生を学ぶのです。
人生から何を学ぶのですか?
人生から学ぶのは唯一のことです。人生を送る中で、いかにエゴと決別するかを学びます。
ナショナル・ロータリアン、1912年7月号
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