最近、ロータリーの会員が世界的に減少する傾向がみられ、その原因がいろいろととり沙汰されています。経済不況や高い会費のせいにする人もいますが、空前の好景気に沸くアメリカにおいても同様の現象がみられることから、理由はそんなに単純なものではありません。
ロータリーに対する魅力がなくなった、ロータリーに入っているメリットがなくなったと感じる会員が、不況を表向きの理由にして、ロータリーを離れていくような気がしてなりません。そうはさせじと、メークアップの期間を延長したり、出席規定を緩めたりして、これに迎合することで、今度は良質の会員を失っていくという悪循環を繰り返しているのではないのでしょうか。
炉辺談話(4)で述べたように、ロータリーライフの中で最も大切にしなければならないことは例会出席であることを肝に銘じ、生涯学習の場としての例会を魅力あるものにしなければなりません。
1929年10月から始まった世界大恐慌を引き金にして、ロータリーの魅力が薄れたため、その後第二次世界大戦までの15年間にわたって、ロータリーをやめたり、ライオンズに移る会員が続出した時代がありました。今のロータリー離れの対策として、そのへんの流れを、古い文献の中から抜き出してみたいと思います。
1930年、ロータリーの奉仕哲学の提唱者であったフレデリック・シェルドンが、突如シカゴ・クラブを退会します。1929年のダラス国際大会で、彼のモットーHe
profits most who service bestを廃止しようという決議29-7が提案され、この提案をアメリカのかなり多くのクラブが支持したことや、同大会で決議された[身体障害児童の救済事業]に関連して、ポール・ハリスが奉仕活動の実践を賛美するスピーチをしたことが原因だという人もいますが、真偽のほどは定かではありません。
奉仕理念の提唱者を失ったことによって、ロータリーの求心力は、いっきに弱まったことは否定できないでしょう。
1932年にロータリアンだったフーバー大統領(共和党)が破れて、民主党のルーズベルトと代わったために、民主党を支持していたライオンズの勢力が一気に盛んになるという出来事が起こります。
その影響をうけて、ララミー・クラブの副会長を務め、その後RI事務局に勤務していた、ポール・ハリスの弟レギナルド・ハリスが、1932年にロータリーからライオンズに鞍替えするという事件が起こります。
1927年から1932年までの間、レッグはロータリーの場で働きましたが、「勝ち馬に賭けること」を欲した彼は、ライオンズに移籍し、それ以来、私達と共にあるのです。
From 1927 to 1932, Reg worked in the field for Rotary. Then desiring to
"bet on a winning horse" he switched to Lionism and has been
with us ever since.
[ Lions International公式文書] 東京江北RC 飯塚悟朗氏資料提供
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レギナルド・ハリスはライオンズ第4地区幹事になって、カリフォルニア州、ネバダ州のロータリーの会員を大量に、ライオンズに転向させたことなどが、分っています。
前述のシェルドンの退会、レギナルドの転向に加えて、この年度から起こったシカゴ・クラブ会員の大量の退会は、決して不況のせいだけではなく、共和党から民主党への政権交代、ニューディール政策による企業の国家管理などのいろいろな要素が複雑にからみあったものではないかと想像されますが、これを解くような資料は一切残されていません。なお、1932年12月のシカゴ・クラブの統計によれば、会員数670名のうち、半期60%の出席義務を満たさなかった会員は213名に上っており、クラブ管理そのものが乱れていたと言えましょう。
1930年の25周年記念大会以降、1945年の国連憲章制定までの15年の間、ロータリーは理念提唱も目だった奉仕活動の実践も行わず、まさにその存在価値をロータリアンにも、世間にも示していないのです。
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