ブェノスアイレスは南半球、時差12時間、即ち地球の丁度反対側にある。大西洋で分けられた平面の地図を見慣れている我々には理解しにくいが、アフリカ大陸は目の前である。日本からの直行便はないし、連続乗り継ぎする元気もないので、ロスで一泊して、翌日のラン・チリ航空に乗って、リマ、サンチャゴを経てブエノスアイレスに着いたのは、2日後の6月2日であった。
空港から市街地まではかなりの距離があるが、ロータリー専用のシャトルバスが運行していると教えられて乗り込む。行き先も聞かずに先着順に乗せて、一つ一つホテルで止めたことや、交通渋滞のために、たまたま最後になった我々が目指すホテルに着いたのは2時間後であった。
初冬の気候と聞いて冬物を持ってきたのに、朝は8度ほどだが日中は20度近くまで気温が上がって汗だくになる。古いヨーロッパ風の町並みには黒人や東洋人の姿は殆どなく、予想外に小柄なスペイン・イタリア系のアルゼンチン人の姿に安堵感を覚える。店屋でもタクシーでも英語は殆ど通じないし、レストランのメニューもスペイン語のオンバレードである。スペイン語に日常縁のない我々にとって、タクシーに乗るのもショッピングをするのも容易なことではない。
幹線道路は別として、街中は狭い石畳の道が連なり、そこをバスやタクシーがけたたましくクラクションを鳴らせながら、猛スピードで行き交う。タクシーは殆どブジョーの小型車で、初乗り80円、思いっきり遠方まで乗ってもなかなか1,000円には届かない。通貨はペソだが、1ドルが1ペソであり、ドル紙幣がそのまま通用するので両替する必要がない。革製品、毛皮、カシミアは日本の1/3ほどの価格である。
夜、2軒しかない日本料理屋を探して、寿司とどんぶりに舌鼓を打ち、コロナ・ビールに酔う。
翌朝、市の中心地からやや離れたラ・ルーラルにある会場を訪れる。
入り口近くの別棟にある登録会場では、例年のように板橋PDGが赤い帽子をかぶってSAAとして頑張っておられた。大会会場は、入った所が大きなロビーとなっていて、その奥正面が「友愛の広場」「飲食コーナー」、左手が「物産コーナー」「ロータリー・グッヅ販売」「ロータリー関係の各種ワーク・ショップ」、更に本会議場入口に面して左側に「タスク・フォース」のブースが、右側に「フェローシップ」のブースが並んでいる。というよりも目下設営中であった。
私は第3ゾーンのRRVFタスク・フォースのコーディネーターを仰せつかっているので、RRVFのブースを探すがどこにも見当たらない。仕方が無いので、フェローシップのブースに行って「歴史と伝統の会」のブースを探すが、これも見当たらない。「アマチュア無線」「切手収集」もない。係員に尋ねるが責任者がいないのでらちがあかない。RRVFタスク・フォースとRHHIFのブースを作ってくれるようにメモ書を残して引きあげる。
昼、「ロータリー・ジャパン・ウエブ」の委員の方々と、マリオットホテルでビジネス・ランチをとる。コンピーター万能の世の中で、インターネットとメールで繋がっている友人が、異国の地で面談をするのも乙なものである。
午後から大会前ワーク・ショップに参加する。次の規定審議会に上程される立法案についての中間報告があった。例会を月2回にするとか、一人一業種を撤廃して一業種10%まで認めるとか、とんでもない提案がでるとのこと。私も代議員として規定審議会に出席するので、ロータリーをライオンズ化するような提案には断固反対することを心に誓う。
夜、ホスト委員会主催のオペラを鑑賞しにコロン劇場に行く。パリのオペラ座、ミラノのスカラ座と並ぶ三大オペラ劇場だけあって、建物の美しさにしばし感嘆する。白髪のかつらに燕尾服の案内人が3階のボックス席まで案内してくれたのには驚いた。有名なオペラのさわりが幾つか演じられたが「蝶々夫人」のラスト・シーンが、一番印象に残った。
翌、開会式の当日、朝から会場に行く。驚いたことに、フェローシップ・コーナーの中央に、Rotary Recreational Vocational
Fellowship Generalの看板をかかげたブースができており、その中に、独立ブースを与えられなかった、RHHIFを含む幾つかのフェローシップのパンフレットが山積みにされているではないか。メールを通じて出発前にコンタクトをとっておいた、北アメリカ・エリア・コーディネーターのMarcus
Crottsと共に、大会中のブース・キーパーの時間割を調整した。日本からRHHIFのビデオを3本持っていったので、ビデオ・デッキの手配を頼むが、機材がないということで断られた。
ポール・ハリス・フェローの昼食会に出席する。1-2,000人もの参加者が一斉に食事をする様子は将に壮観である。旧知のゲーリー・ファン第4ゾーン理事エレクトの案内で台湾のロータリアンと同席し、友情を暖める。
夕刻、第1回目の開会式に出る。8,000人が収容できる会場は超満員である。シンガポールでは会場を縦長に使ったので、ひな壇の上は豆粒のようにしか見えなかったが、ここでは横長に使い、かつ大画面のマルチ・メディアを4基備えたため、非常に見やすかった。ただし、最初のうちは再三画面が途切れたのがご愛嬌だった。
例年の大会の開会式は、挨拶と参加各国の国旗入場で終わるのが普通だが、今回は、南米の歌と踊りをふんだんに取り入れた大規模なエンターテイメントが延々と続き、参加者を楽しませた。なお、大会2日目以降の本会議も、幕間には必ず一寸したエンターテイメントを入れる工夫が見られた。開会式終了後、会場外の特設馬場で、騎馬警官による華麗な演技が披露された。
聞くところによると、第2回目の開会式も満席になったとのこと。この日発表された登録数は12,000人とのことなので、4,000人が開会式に2回出席した勘定になる。これも素晴らしいエンターテイメントの効果らしい。
大会2日目は朝7時の日本ロータリー親善朝食会から始まった。この催しは一昨年のインディアナポリス大会から始まったものだが、今回はRIの役員等の来賓を含めると約600名が参加して盛大に催された。
9時から12時まで、RRVFとRHHIF共同のブース・キーパーを勤めた。ブースは本会議場の入口近くなので良い場所だと思ったが、前を通る人は足早に会場に入る人ばかりで、ブースは閑散とした状態。日本から持っていった入会案内や申込書を渡そうにも、日本人の一団は朝食会を最後に観光旅行に出かけたらしく、その姿は殆ど見かけなかった。
Futa事務総長がブースを訪れたので、ロータリー・ジャパン・ウエブの説明とRIからの情報提供をお願いする。本会議場ではアルゼンチン大統領の歓迎スピーチや、ビル・ハントレー財団管理委員長のスピーチ、ジアイ元会長を中心にしたラテン・アメリカのプレゼンテーションが行われた。
午後から、「ロータリーにおける新しいコンセプト」と題して日本語によるワーク・ショップが開催された。参加者は150人位だったが、小谷理事がコーディネーターを、重田・岩井・南園PDGがパネリストを勤められ、会場からも池上・玉村PDG、成川DG、小生等が提言を行い、活発な討議が行われた。
夜、運河沿りの再開発地区まで足をのばして、カリビアン料理に舌鼓を打つ。
大会第3日目は、恒例の次期役員選挙である。RI会長、理事、ガバナーそれぞれについて、推薦のモーションが出され、セコンドが応援演説を行って、全員が「アイ」と叫んで無事終了した。その後、デブリン会長エレクトが受諾演説と次年度の方針を述べた。長身から出る、早口で歯切れの良い語り口は、観衆に強いインパクトを与える。20タスク・フォースに関する具体的な活動と、ウエブ・サイトやE-メールの活用についての説明があった。
昼は、デブリン会長エレクト主催の次期役員のための昼食会があったが、私は、ジアイ元会長主催の同期役員の昼食会に参加して旧交を暖めた。100名ほどの同期ガバナーがそろいの煉瓦色のブレザーを着て出席したが、日本からは、今井理事夫妻と我々だけだったのが残念であった。
夜、地元ホスト委員会主催の「タンゴ・ナイト」が開催され、約4,000人のロータリアンが、すすり泣くようなバンドネオンの音色と妖艶なダンスに、しばし酔いしれた。タンゴ発祥の歴史を年代順に追っていく素晴らしい構成であり、この大会全体が歌と踊りをふんだんに取り入れたコンセプトで進められていることを強く印象づけた。
最終日は、RI元会長の紹介に続いて、ラビッツア会長と家族の紹介、現理事の紹介とラビッツア会長のスピーチで大会を締めくくった。夕刻から開かれた閉会式にも楽しいエンターテイメントが予定されていたようだが、飛行機の時間の関係で見ることができなかったことが、返す返すも残念であった。
この大会に出席して、多くの人と語り合う機会を得た。印象に残ったことを纏めてみたい。我々を魅了してきた素晴らしいロータリーの理念に触れる人は殆どなく、人道主義に基づいたボランティア活動だけがロータリー・ライフの全てであるかのように語られている。日本のロータリアンに対する期待は財団寄付のみであり、「金だけ出していればいい。口はだすな。」という雰囲気を露骨に感じた。
ポール・ハリスはともかくとして、シェルドンやガイ・ガンディカーの名前を知っている人は極く僅か。決議23-34や道徳律に至っては、その存在すら知らない人が殆どである。ロータリーの先達が築いてきた、輝かしき「歴史と伝統」を守り抜く必要性をしみじみ感じた大会であった。
なお、大会参加者は113ケ国、14,060名。日本からの参加者は1.063名であった。
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