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炉辺談話(73)

レッグ・ハリス
 

 ポール・ハリスの末弟レジナルド・ハリス Reginald Harris は1886年の生まれですから18歳年下の弟ということになります。
 ライオンズの文献によると、1905年2月23日に開かれたロータリー最初の会合には、19歳のレッグが参加していたという記載がありますが、真偽のほどは明らかではありません。レッグは第一次世界大戦に従軍後、ワイオミング大学を卒業し、1926年から29年まで同大学で経営学の教鞭をとり、同時期にララミー・ロータリークラブの会員となって、副会長を務めます。
 さらに、1929年から国際ロータリーの事務局に勤めますが、1933年に突然ロータリーを去って、ライオンズに入り、第4地区幹事としてカリフォルニア、ネバダ地区のライオンズ組織拡大に大きく貢献します。

 ポール・ハリスが亡くなる5日前の、1947年1月22日午後4時30分の消印のある、ポール・ハリスがレッグ・ハリスにだした手紙が残っています。その宛名は、サンタバーバラの国際ライオンズ事務局気付けとなっています。
 レッグは1954年にライオンズを去り、1958年72歳でこの世を去りました。

 次のライオンズの文献は、レッグがライオンズを退会するに当たって、ライオンズ第4地区ガバナーから寄せられた感謝文だと思われます。なお、この文献は、江北クラブの飯塚悟朗氏から寄せられたものを、私が翻訳したものです。


  有名なサレムの魔女狩が盛んであった頃、レッグ・ハリスはあいにく、そこには居合わせてはいませんでしたが、彼の祖先がそこにいた可能性は充分考えられます。レッグは生粋のニューイングランドの血を引いているのです。彼の先祖が魔女狩りをした方かされた方かは別にして、国際ライオンズ第4地区が、幹事として、この敬慕すべき紳士を擁していたことは、紛れもない事実です。
 レッグの先祖もまた、ニューイングランドとカリフォルニアの二足の草鞋を履いた今日の彼という偉大なる人物を産み出すために、カリフォルニアの地に入植したのです。
 伝えられるところによると、レッグの祖父は1849年早々に、カリフォルニアのレッドウッドの事業に投資しました。不運だったのは、当時家族が持っていた全ての資金をその投資に注ぎ込んだことでした。しかし、投資家である不運な祖父の兄弟は、カリフォルニアの初代法務長官という政治的な名声を築くことになります。

 我々の愛すべき地区幹事が、アメリカの他の場所ではなく、個人的にこの場所を選び、このカリフォルニアに居を定めたのは、1936年になってからのことです。もちろん、レッグは、国際ライオンズによってこの地に送られたのですが、当時、彼は、不況のために危機的状況にあるクラブを強化したり、消滅したクラブから連合会の会費を取立てたりする仕事を手伝っていました。
 瀕死のクラブを看取るという経験を通じて、レッグは、もしも彼がそうすることが出来る立場にいるのなら、ライオンズ精神を適切に備えた上で設立するように提案したのにと、財産を管理下において解決を図ることに強い反発心をつのらせていきました。

 レッグは、第4地区の幹事として、今日に至るまで、びた一文の報酬も取らずに、銀行の口座を充分管理しながら余剰金を積み立てることを始めて、ガバナーに大きな影響力を与えました。今は、代々の理事会の協力のもとに、レッグがこの資金を慎重に管理すると共に、それを増やしていったので、私の知る限りでは「彼」の地区が健全な状況にあるということは、彼にとって幸せなことです。
 第4地区における財政的な支払能力と信用を回復すると言う願望を達成することは、批判され、嘲笑され続けたレッグにとっては容易なことではありませんでしたし、このことは、レッグやずっと彼と意見が一致しなかった人たち双方にとって、忘れることのできないことでした
 第4地区において彼が17年間にわたって奉仕をしている間に、レッグは、比較的小規模だったライオンズの地域から、約600のクラブと30,000人の会員を擁する、国際ライオンズの中でも指導的立場にある地区の一つに成長させたのです。
 最初のうちレッグは、クラブの組織を作ったり、クラブの仕事を手伝ったりしていましたが、地区が後援している数多くの慈善活動をやり遂げるのを手伝うために、地区事務局の仕事が、非常に重要になってきたので、常勤の幹事にするように要求しました。
 我々の忠実な幹事は、「摩擦は行動を起こしたからではなく、それを途中で止めることにある」と熱っぽく語り掛けています。 他の地区と同じように、第4地区の中にある11の分区のそれぞれが、調和と友好を保っているのは、レッグに対する真の信頼が本物であった証拠です。
 第4地区が強固で力強く結び合っているのは、レッグ・ハリスのたゆまぬ努力によるところが大です。

 レッグの履歴を振り返ってみると、彼は第1次世界大戦に際して軍人であったことが分かっています。郵便局長、商人、ワイオミング大学の経済学と政治学の教授であり、学士号および修士号を持っています。
 最も愛すべきライオンズ精神を持った幹事は、たまたま入った奉仕クラブの活動に対しては、活動的にはなれませんでした。レッグの兄ポールは、1905年にシカゴでロータリーを創立した人であり、当時19歳の若者であったレッグは、ロータリーが誕生した事務所に居合わせた五人のうちの1人でした。
 1927年から1932年までの間、レッグはロータリーの場で働きましたが、「勝ち馬に賭けること」を欲した彼は、ライオンズに移籍し、それ以来、私達と共にあるのです。

 カリフォルニアとネバダにおけるライオンズが、ひときわ目立つ存在になった功績の多くは、レッグ・ハリスのなせる業です。これらの二つの州における、600以上にものぼる地域社会で、ライオンズが実践している偉大な慈善活動の功績の多くは、彼のなせる業です。彼らの故郷をより住み易い場所にしようという一つの目的に結集させて、これらの二つの州の人たちを、一つの大勢の仲間のグループに融和させた功績は、レッグのなせる業です。
 もしも誰かが彼になり代って、椅子に座り、彼の目と心を通じて、彼が過ごしてきた過去を振り返って見るために、彼の生涯の光景と活動をスクリーンに映し出したとしたら、レッグの目を通じて、世界のライオンズが、おむつをしたよちよち歩きの子供から、誰にも負けない勢力を持ち有用で活動的な大人に成長したライオンズ精神を、目のあたりにすることができるに違いありません。

 第4C-1地区ガバナー、スタンレー・ウエークフィールドおよび全役員、国際ライオンズ・カウンセラー、2,900名のライオンズ会員は、謹んで、レッグ・ハリスに感謝の意を表明いたします。