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炉辺談話(76)

五年間の愚行

 ポール・ハリスは1891年 6月、アイオア州立大学のロー・スクールを卒業と同時に弁護士試験にも合格しました。卒業生仲間はそれぞれの地方に散り、弁護士事務所を開設する準備を始めていましたが、たまたま卒業式で先輩が述べた「法学部の卒業生は小さな町に行って五年くらいは愚行を重ね、その後に、開業するために自分が選んだ町に行く方がいい。」という言葉を自己流に解釈して、「五年間位は、一箇所に定住しないで各地を廻り、あらゆることを経験する」ことを決心しました。波乱万丈な生活は学生時代だけに留まらず、1891年の夏より、アメリカ全土とヨーロッパを放浪する冒険の旅「五年間の愚行」が始まりました。

 アイダホの荒野を西に進み、イエローストーンを経て、まずサンフランシスコでクロニコル紙のリポーターを勤めたのを振り出しに、バーカー渓谷では果樹園の労務者、フレズノでは干し葡萄の包装工場で働いて、その日の糧を得ながらロスアンゼルスまでたどり着きました。ロスアンゼルスではLAビジネス・カレッジの講師をしていましたが、1892年4月には列車に揺られながらロッキー山脈を越えて、デンバーに向かいます。ここでは、ロッキー・マウンテン・ニュース紙の新聞記者として働く一方で、オールド・フィフティーン・ストリート劇場で舞台俳優を勤めました。ショーマンとしての本能を持っていた彼の人気はなかなかのものでしたが、旅回りの一座は、あまりにも侘びしい生き方だったので、今度はプラットビルに行って、アメリカの若者のもっとも憧れる職業であるカウボーイを志願しました。しかし、現実はそんなに甘いものではありませんでした。

 東へ向かったポールは、フロリダ州ジャクソンビルにある、セント・ジェームズ・ホテルの夜間事務員になりましたが、そこで知り合ったジョージ・クラークにスカウトされて、クラーク大理石会社に勤めることになり、セールスマンとして南部各州を旅するという、放浪生活を送るには、またとない機会に巡り合います。
 クリーブラント大統領の2度目の就任式を見学するためにクラークの会社をやめたポールは、1893年3月、ワシントンにやってきました。この期間中ワシントン・スター紙の記者を勤めましたたが、その後、別の大理石販売会社のセールスマンとして、ケンタッキー、テネシー、ジョージア、バージニアを回りました。

 イギリスに行くことを夢見たポールは、フィラデルフィアから牛運搬船ボルチモア号に乗り組みましたが、嵐の中の14日間に及ぶ下級水夫としての船旅は困難と苦痛の連続でした。その上、極めて短期間、リバプールに滞在しただけで、パークモア号に乗って帰路につかなければなりませんでした。

 せっかくイギリスに行きながら、ロンドンを訪れることができなかったポールは、エリオットの農場の雑役やコーンの缶詰工場で働きながら、次の船便を待っていましたが、ちょうど、ボルチモアに着岸していたミシガン号の船員監督に採用されという幸運を掴むことができました。
 待望のロンドンに着いたポールは、ウエストミンスター寺院や国会議事堂やロンドン塔を訪れ、古い通りと建物に響きわたるボン、ボンというビッグベンの音に自分の時計を合わせたり、船員仲間と共にテームズ川を船で下ったり、ピカデリー・サーカスやトラファルガー広場を訪れたりして、ディッケンスの描いたロンドンを肌で感じることができました。
 帰りの航海で寄港したウエールズのスウォンシーでは、たまたま起こったストライキの影響で出港が三日も遅れたため、この古い町を心行くまで探索するという幸運に巡り合いました。

 1893年9月、万国博覧会を見物するためにシカゴを訪れ、その後、借金を返すために広告に応じてニューオリンズに行って、オレンジ畑の作業員の仕事に就いていましたが、同年10月1日に、最大級のハリケーンの襲来に見舞われ、溺れかかっいてた少女を助けながら脱出したという記録が残っています。
 1993年10月、クラーク大理石会社に復帰したポールは、セールスマンとして南部各州を回った後、買い付け代理人としてヨーロッパ各国を回るほど、その経営手腕を発揮しました。彼はこの機会を利用して英国を始め、大陸の殆どを見聞する機会に恵まれました。帰国したポールは、新しく住宅部門を開発して、クラークの片腕として活躍しましたが、当初の計画であった五年間が間近に迫ってきました。クラークはあらゆる有利な条件を出して彼を引きとめようとしましたが、ポールの決心は変わりませんでした。
 「私は弁護士です。私は金を稼ぐためにシカゴに行くのではありません。私の人生を切り開く目的で、そこに行くのです。」
 クラークは、ニューヨークに行ったことがないポールのために、ニューヨーク支店長の肩書きを与えて、長年にわたるポールへの餞別としました。