炉辺談話
Fireside meeting 炉辺談話の表現が、Informal meeting 家庭集会に変わったことから、その会合の持ち方や内容も変える必要があるのではないかという疑問を持っている方もあると思いますが、この会合は例会のように定款で規定されている会合ではありませんから、自由に開くことができます。
会員宅を持回りして、小人数で開く非公式な懇話会であり、話題は特にロータリーに限定する必要はありませんし、むしろ親睦を深めるための会合と考えた方がいいでしょう。話題がロータリーに関連しても結構ですし、その場合はアット・ホームな雰囲気から、公式な会合ではなかなか言い出せない初歩的な質問なども、気易くきりだせますし、ロータリー理論の研究会など、とかく堅苦しくなり勝ちな会合を炉辺談話の形式ですると、非常に効果的です。ただし他の会員の批判やクラブ管理上の不満を話題にすることや、参加会員が固定化して党中党を作ることのないように留意する必要があります。
会員宅を廻り持ちすることも、必ずしもそれにとらわれる必要はありませんし、お茶とお菓子でもいいですし、少々ならアルコールが入ることで、かえって本音がでて効果的な場合もあるでしょう。
1935年に、新入会員にロータリー情報を提供するために始められたものですが、その後シカゴクラブがこれを取り入れて、大きな成果を修めたことから、世界的に広まっていきました。
Oren Arnold 著の「ゴールデン・ストランド(田中 毅訳)」に、Fireside meeting が開かれた経緯について詳しく解説されていますので、以下これを引用してみます。
ロータリーの魅力と呼ばれるものの多くは、正規外な活動、発足時の目的や理想を越えたもの、クラブのリクリエーションに分類する必要がある。さらに、これらの多くのものは、スポーツではない場合も含めて、途方もなく楽しいものである。
ハーブ・アングスターは、ロータリーの最も魅力的な活動の一つについて、それがどのようにして始まったかを、再び話し始めた。
「もちろん、私は、その夜のことを覚えています。それは1937年のことで、アグネスと私は、シカゴ近郊の、ハイランド・パークの新居に引っ越したばかりでした。私たちは近所の人を誰も知りませんでしたが、この町にはロータリークラブがあって、私はその例会に一・二度に出席しことがありました。そこで私は、あることを考えついて、私のシカゴ・ロータリークラブの事務局に電話をして、ハイランド・パークに住んでいるすべての会員のリストを知らせてくれるように、幹事に頼みました。その結果、少なくとも12名が住んでいることが判りました。
そこで、アグネスと私は日付を決めて、それらの会員たちをロータリーの集会として我が家に招待しました。ハイランド・パーク・クラブからも四人の新しい友人を誘いましたが、ほとんど全員がこれに応じてくれました。我々は、新しい大きな暖炉の燃え盛る炎の前に、余分の椅子を運び込まなければなりませんでしたが、幸わせな夕べでした。
私は、しばらくの間、ニースで開かれた最近のロータリー国際大会について話し合ったことを覚えています。私たちがフランス人の会長を持つことなど、誰が想像したでしょうか? しかし、私たちはモーリス・ジュペレーを会長にして、ロータリーの輪の中心を、旧世界に移したのです。
そうです。それは皆にとって極めてなごやかな楽しみだったので、シカゴ・クラブから来た私のゲストが、すぐに彼らの家庭で、ロータリアンの会合を開き始めたのです。初めのうちは、私たちはそれをファイアサイド・ミーティングと呼んでいました。それはいまでも、ロータリーのすばらしい一要素となっています。」
その考え方と名称が人気を博して、非常に迅速に広がっていった。ハーブ・アングスターの話は厳密に言えば、オリジナルなものではなかった。2年前に、メキシコシティにおける国際大会で、一人の講演者が述べている。
「多くの小さなクラブが、正式に準備した場合よりもより深い知識が得られるファイアサイド・ミーティングという媒体を通じて、新しい会員にロータリーをよく説明している。」
しかし、それは更に、ロータリーの議事 business sessions や委員会の会合 committee meetings にも効果的だった。アングスターのファイアサイド・ミーティングは、もっと社交的な雰囲気だった。あらゆるロータリーに関する話は、非公式な付け足しに過ぎず、親睦が第一であった。
これらの集会の高い人気は、シカゴ・ロータリークラブを喜ばした。どんな会員が自分の家に招待しても、何人でも集まることができたし、ある時は夫人同伴であり、ある時はそうでなかった。男のファッションや、先験哲学からピーナッツの栽培に至るまで、すべての事柄が話題に上った。
ある夜、商人が尋ねた。
「なぜ、このような非公式のファイアサイド・ミーティングのことを、“お喋りをする(脂身の肉をかじる) chewing
the fat”と言うのですか?」
文学部の教授が微笑みながら答えた。
「エリザベス1世の時代である、イギリスのシェイクスピア時代に遡れば、人々が訪問したとき暖炉の前に集まる慣習がありました。当時、各々の家庭ではたいてい、長い期間保存するためにベーコンの切れ端を暖炉の上の棚にぶら下げていたのです。人の話によれば、彼らは剣かナイフを取り出して、届く範囲の塩辛くて脂肪の多い干物の塊を切り取ってから、床に座りなおして、文字どおり、それを噛じりました。それは、ちょうど我々が、プリッツェル
pretzels やポテトチップスに手を伸ばすのと同じことです。だから、“脂身の肉をかじる”ことは、思いついたことを何でも議論することと同じ意味になったのです。」
ポール・ハリスはロータリーのこの現象を想像だにしなかっただろうが、きっと、関係するすべてのことが楽しかったに違いない。1964年には、25,000回にも及ぶファイアサイド・ミーティングが、世界中のロータリーの家庭で開催され、シカゴだけでも数十回に及んだ。シカゴ・ロータリークラブが、クラブの責任下に置くことによって、このなごやかな現象を承認した1930年代の終りに遡ってみたい。郊外に住んでいる人たちが大量にやって来ることから作られた大都市圏委員会から、正式にまた公式に、ファイアサイド・ミーティングを要望されたことはなかったが、いくらかの努力がなされたことが記録に残っている。典型的なものは、1960年の秋に、西郊外地域で2晩連続して行われた、四つの特別な会合が報告されている。一つは、めいめいが、自分自身のことをについて話すために、2分間を与えられる社交的なものであった。この会議は、また、クラブの新しい会員を同化するのに役立った。
最近になって、会合のほとんどが即席か、ぎりぎり直前に用意されるようになった。彼らが楽しんで有益な機会であることは、例外なく皆が認めるところである。年ごとに、ファイアサイド・ミーティングの規模が大きくなっていくように思われる。
ハーブ・アングスターが50歳の若さの頃に戻ってみよう。彼はゲストたちに、多分、最近の不景気のことや、ドイツの問題で沸きたっている政治の舞台や、我々の居間にあるテレビのような意外と新しい可能性や、前世紀に湖岸で行われた発展博覧会には、ショー・ケースを陳列したのかどうかといったような話題を提供していたに違いない。それが1965年には、テレビカメラを月に向けて発射するとか、タバコの箱に癌の警告を義務づけるとか、女性のトップレスの水着とか、西海岸から東海岸まで30分で飛行するとか、話題はとんでもない内容にそれていったに違いない。話題は変わっても、それを議論することはいつも楽しいことである。
このファィアサイド・ミーティングは、ロータリアンが集まるところでは何処でも、ゴルフ・コースでも、ボーリング場でも、ヨット・クラブでも、いわんや火曜日の昼食のテーブルでも、人々はしばしば「……の時のことを憶えているかい……」と口を滑らせることを、避けて通れない運命にあった。回想は、いつも男たちの会話の生き生きとした幸福な一部であった。年輩の者だけが、去りし日々を忍ぶのではなく、すべての年齢の人々は、過去を回想し、そのことを話すのが好きなのである。子供でさえも。
「私は、チャーリー・コミスキーが我々のクラブに入ってきた時のことを覚えているよ。彼は有名人だった。」
1965年12月に暖炉の前で、一人のシカゴの男が言った。
「もう、その話は止めてくれよ!」
ロータリアンの同僚が、話をさえぎった。
「またそんなことを言って……チャーリーは1913年に入会したんだよ。私は、たまたま、9歳だった当時の君のことを知っているんだよ。」
最初に口火を切った男はやりと笑った。
「そうとも。私が言いたいことは、あらゆる年代の人が、チャーリーに関して聞いたことを覚えていると言うことだよ。だけど、私が9歳だった頃でさえ、彼は、私のヒーローだった。お分かりかな? 彼が入っているクラブと同じクラブに入るほど、私が成長するなどとは決して思わなかったよ! 私は、アブラハム・リンカーンの伝記よりも、ずっとよく彼の生き様を知っているんだよ。」
「彼は1876年に、17歳の年で、ミルウォーキー・チームで野球を始めた。後に、セントルイス・ブラウンズのマネジャーとして、1885年から1888年まで、4回連続してチームに優勝をもたらした。そして、1900年に、彼はシカゴ・ホワイトソックスのオーナーになったんだ。」
「彼が会員になってロータリーに出席して、始めて卓話をした日に、野球の裏話をして、陽気な馬鹿騒ぎをする機会に変えてしまったんだよ。そこで、2週間の間彼に注目していると、次の週の昼食例会で、大きな事業としての野球について話をしたんだ。その日の結論として、クラブは次の土曜日をコミスキーの日とすることを満場一致で決めて、会員のほとんど全員が、セントルイス・ホワイトソックスの試合を見るために、車を借り切って、家族と共に参加した。君たち、これが、ロータリーへの入門なんだよ!」
野球の話が加わって、更にすばらしい1時間だった。その後で、夫人がコーヒーと4層の厚いケーキをサービスし、男たちは、チョコレートとピーカンに舌鼓を打った。ロータリーの魅力とは、そのような機会を通じて、大きな高まりを受けとめることである。
ロータリーを回想すれば、半ダースにも及ぶ著書に、収まり切れるものではないだろう。しかし我々は、少なくともここに確実に記録され、しばしば語られた幾つかの事柄について、既にみんなが満喫したように楽みたいものである。金色の歯車のケースを手にして出かけることをお勧めしたい。特に、かなりの年輩の人ならば、この象徴的なファィアサイド・ミーティングによって満ち足りた気持ちになることは必定である。
ゴールデン・ストランド(田中 毅訳)より抜粋
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